
長編『夏のメモランダム』

つづきはまたのお楽しみということで。
簡単には説明できないのですが、とにかく読んでくださいね。
セリフに「冬ソナ」本編のものを使うのは、相変わらずこだわってますが、あのミニョンのスマートさを描けるかが心配。
ジョークも洗練されていないといけないし…。
とりあえず、僕自身の過去の経験を書いたようなもの。
自分の思い出のシーンを回想している気がします。
はい、僕は好きな女性の前では、かなりキザな男です。
夏のメモランダム 第2話
その日…。
師事しているピエール・ダンカン氏のブティックをチェリンが出たのは、夕暮れの頃だった。
パリの街は、4月の眠い空の下、次々と美しい灯火が溢れはじめていた。
ひとつひとつ… まるで、新しい愛が生まれるように…。
いつも通りに地下鉄の駅に向かって歩きながら、チェリンはその街の煌めきと蒼い夕空に見とれていた。
(…なんだか、もったいないな…。こんなに綺麗なのに…。)
この美しい時間をもう少し見ていたいと思った。
ふと気づくと、ちょうど駅の前にバスが停まっている。
行き先も、自分の住むアパートの方面だった。
チェリンは、バスに乗って帰ることにした。
パリに来て初めてのことだった。
パリの市内バスには、あまり観光客は乗ることはないらしい。
乗客達は、チェリンのその東洋の香りを漂わせた美しい容姿にちらりと視線を向けると、一様ににこやかな笑顔を見せた。
チェリンも、誰とはなしに笑顔を返しながら、バスの後部に席を求めた。
窓の外を流れる風景は、まるで絵のような美しさであった。
まだ空にはワインカラーの雲が残っている。
ライトアップされた石造りの建物は、上品なフランス料理のように、芳しい香りを感じさせてくれる。
少し開いた窓から、優雅な風が優しく流れてくる…。
チェリンは心地よい雰囲気に包まれながら、いつしか目を閉じてしまっていた。
*
交差点を曲がるバスの揺れに、チェリンは目を覚ました。
「………? ……!」
慌てて窓の外を見たが、覚えのない街の風景だった。
停車のためのボタンを探したが、それらしいものは回りにはなかった。
パリのバスには、停車を伝えるボタンはないのだ。
「…すいません…。次、降ります!」
運転士に伝えたチェリンは、ため息をついた。
(…いったい、どこまで来ちゃったんだろう…。)
辺りはすっかり闇に包まれていた。
バスが停まったのは、知らない駅の前だった。
とにかくそこから地下鉄に乗り換えていけばいいだろう。
そう考えて、チェリンはその駅前に降り立ち、周囲を見回した。
パリの郊外になるのか、それほど近代的な建物はなく、落ち着いたたたずまいの街である。
派手な店は見られず、すぐ先にカフェらしい古びた建物が、その煉瓦造りの壁を闇に濡らしていた。
(…何か食べて帰ろうかな…。)
その店の重厚な造りに引きこまれるように、チェリンは重い樫の扉を開けて中に入っていった。
扉を閉めたその瞬間…
『ボ~ン… ボ~ン…』
入り口に置かれた古い大時計が時を告げ始めた。
止まっていた何かが…動き出したような…。
懐かしい時間への誘い…。
チェリンは、軽いめまいを感じた。
店の中は、建物の外見とはうってかわって柔らかな雰囲気であった。
煉瓦の壁に掛けられた陶芸品などが、照明を和らげながら、暖かな空気で店内を潤していた。
チェリンはゆっくりと階段を昇った。
「…いらっしゃいませ…。…お一人様ですか…?」
店員にたずねられ、チェリンはうなずいた。
「…こちらへどうぞ…。」
チェリンは、窓際の席に案内された。
年月の流れを感じさせながらも、つやを失っていないテーブルと椅子だった。
そこからはこの街の様子が見渡すことができた。
それほど高い建物もないようだ。
ひとつだけ遠くシルエットになっているのは教会だろうか…。
チェリンは、ワインと簡単なメニューを頼むと、改めて店の中を見回した。
20ほどのテーブルが用意された店内は、半分ほどが客で埋まっていた。
仕事帰りの人々がほとんどのようであったが、中には家族連れらしい人達もいた。
ひとりで座っているのは自分だけ…。
そのことに少し後悔しながらも、チェリンはこの店の雰囲気に、日頃の疲れが癒されていくのを感じていた。
軽く口をつけたワインのせいかもしれない…。
チェリンは、何気なく奥の席に座って食事を楽しんでいる数人に目を移した。
やはり仕事帰りなのだろうか… 自分と同じ年頃の青年達だった。
その中のひとりが、明るい笑顔でこちらを向いた。
…その顔…!
(……!! …まさか…)
チェリンの身体の中で、全てが停まった。
(…まさか… …そんなはずは…)
自分の鼓動が激しくなるのがわかった。
こちらに半身を見せているその青年の横顔…。
自分と同じ… 東洋人であろう。
端正な顔立ちに似合った、クールなデザインの眼鏡…。
髪型はラフなウェーヴで流している…。
髪の色も、シャンパン・ゴールドにカラーリングされている…。
(…まるで… 違う…。 けれど… 同じ…。 )
チェリンの脳裏に、彼の面影が浮かび上がった。
ずっと… 何年も消えなかった面影…。
それが… 今、目の前に現れている…。
(…カン・ジュンサン…?)
チェリンは、届いた料理にも気づかずに、その青年を見つめ続けていた。
-つづく-
あとがき
まだ文字数制限には余裕がありますが、ここらで一旦筆休め。
いよいよミニョンとの再会です。
バスで寝過ごすチェリン…。
「冬ソナ風・出会いの場面」にはこれでいいかと。
僕の作品にしては、風景描写が多いかと思います。
それは、この場面を大切にしたいから。
僕自身の思い出をアレンジして書いているせいでもあります。
フランスどころか、ハワイにも行ったことのない僕が描くパリの街…。
はたしてみなさんに、その「優雅な風」が届くのでしょうか…。
夏のメモランダム 第3話
チェリンは、その青年を見つめ続けている…。
やがて、その視線に彼も気が付いたようだった。
少し首をかしげるように、彼はチェリンを見た。
そして静かな微笑みを浮かべ、目礼を送った。
チェリンは、どぎまぎしながらも会釈を返した。
胸の高鳴り…。
上気する頬…。
チェリンは、ワインを夢中で飲み干した。
はずみで激しくむせこんでしまった。
「……!! …!!」
その様子に、彼はつと席を立つと、チェリンの方に向かって歩いてきた。
「…大丈夫…ですか?」
流ちょうなフランス語であった。
意外と低いその声は、やはり…
(…同じ…! …彼と… 同じ…。)
チェリンの肩に、そっと彼の手が乗せられた。
(…!!)
チェリンの身体がこわばった。
それに気が付いたのか、彼は静かに言った。
「…失礼。 …これを…。」
差し出された真新しいハンカチは、見覚えのあるデザインの物だった。
彼は続けて言った。
「…お使いください…。 …汚れてはいませんから…。」
さすがに、それを口に当てるわけにもいかず、チェリンは黙って目だけで礼を言った。
自分のバッグから出したハンカチで、口をぬぐった。
「…おや…? …同じハンカチですね!」
彼が、うれしそうな声をあげた。
チェリンは、ようやく落ち着いて、返事をした。
「…すいません…。ありがとうございます…。」
たどたどしい自分のフランス語が、恥ずかしかった。
そして、彼が渡してくれたハンカチを、そっと差し出した。
彼は、それを受け取りながら、ゆっくりとしたフランス語でたずねた。
「…失礼ですが… どこかでお会いしたことがありましたか…?」
「……。」
チェリンは答えに詰まった。
「……はい…。 …いえ、……。」
自分でもうろたえているのがわかった。
その様子に、彼はクスッと笑うと
「…よかった…。
…こんな美しい女性に会ったことを忘れてしまってるなら…
…僕は、自分の記憶を疑ってしまいますよ…。
…しかし… 僕の顔… 何かついていましたか…?
…別に変わったものはついてないはずですが…。
…目はふたつだし… 鼻はひとつ… 口もひとつ…。
……? 」
チェリンは、彼の、いたずらっ子のような表情に、ほっとするような思いで答えた。
「…いえ… ただ… 素敵な方だな…って…。
…そう思って見ていたんです…。」
「…おい、おい… こいつは穏やかじゃないな…。」
彼と一緒にいた友人のひとりが、冷やかすように言った。
「…フィリップ! 失礼なことを言うなよ…。
…光栄ですね…。
…あなたのような方に、そのようにおっしゃられると…。
…パリにまで来た甲斐があったというものです。」
「…! …パリに…?
…失礼ですが… どちらのお生まれですか…?」
チェリンは、じっと彼の顔を見つめてたずねた。
(…もしかすると…)
チェリンのその期待は、彼のにこやかな笑顔で消されてしまった。
「…僕ですか…?
…僕はアメリカ生まれです。
…そう… アメリカ人…なのかな…。
…でも、父も母も韓国人ですけれどね。」
「……!!」
チェリンは思わず韓国語で言った。
「…あなたも…韓国人ですか?
…私もです! …留学で、パリに来ているんです!」
「…ああ。…そうなんですか。
…それなら話が早いな…。
…しばらく韓国語で話せる相手がいなくて… 寂しかったんですよ。」
彼も、韓国語で答えた。
「…僕は、イ・ミニョンといいます。
…あなたは… お名前を聞かせていただいてもかまいませんか?」
「…私… オ・チェリンといいます。
…イ・ミニョンさん…とおっしゃるんですか…。」
(…やはり… カン・ジュンサンのわけ…ないわよね…。)
「…チェリンさん…。
…いい名前ですね…。
…お近づきの印に…
…どうです? ご一緒に、こちらで食事でも…。」
「…おい、おい… ミニョン!
…僕たちにわからない言葉で話しやがって…。
…このマドモアゼルも、君と同じ韓国の方なのか?」
確か、フィリップという名前だった。
その友人に、ミニョンは言った。
「ああ。僕と同じ韓国のマドモアゼルだそうだ。
…お名前は、オ・チェリンさん、とおっしゃるんだ。
…チェリンさん… こちらへ…
…パリ、パリ!」
フィリップが笑った。
「…なんだ? …その『パリ』っていうのは。
…僕たちパリっ子のことか?」
ミニョンも笑って答えた。
「…違うよ。
…『パリ』っていうのは韓国語で『早く!』という意味さ。」
「…なんだ…。…おもしろいな…。
…マドモアゼル・チェリン… パリ! パリ!」
友人たちはみんなでチェリンを席に呼んだ。
チェリンは恥ずかしそうに、同じテーブルに加わった。
「…では… 我らが新しきマドモアゼルの登場を祝って…
まずは乾杯を…。
…さぁ、チェリンさん… どうぞ…。」
フィリップが、ワイングラスを取ってくれた。
芳醇な香りが漂った、上質のワインらしい。
「…では、今宵一番の淑女に… 乾杯!」
「…乾杯!」
チェリンもグラスを傾けた。
思わず、恍惚となりそうな気がしたほど、美味しいワインだった。
「…どうです… チェリンさん…。 何か召し上がりませんか?」
ミニョンがメニューを片手にたずねた。
「…いえ、結構です。
…このワインだけで十分…。
…お礼と言ってはなんですが、私に何かごちそうさせてくれませんか?」
「……! …まさか… 女性にごちそうになるわけにはいきませんよ…。
…そんなお気遣いは無用です。
…この無骨な男たちの席に加わっていただいただけで… 何よりのごちそうでしたよ。」
フィリップも横から口をはさんだ。
「…チェリンさん…。 どうでしたか? …そのワイン…。
…何でも、年代物らしいですよ。
…このミニョンのやつのおごりなんです。
…これ一本で…ルノーが1台買えるらしいですよ…。」
「……!!」
チェリンは驚いた。
そんな高級なワインを頼むミニョンに… 自分がごちそうする…だなんて…。
恥ずかしさに顔を赤らめたチェリンに気づいたのか、ミニョンがフィリップを叱った。
「フィリップ! 君のおしゃべりには、困ったもんだな…。
…本当に…
…チェリンさん… お気を悪くなさらずに…。
…こいつら… ちょっと酔ってるものだから…。」
「…なんだよ、ミニョン!
…君が例の美術館の『完成前祝い』だって言って、僕らを呼んだくせに…。
…飲め、飲めっていうから… ちぇっ… 僕らは、とんだ引き立て役だぜ…。」
フィリップはゲラゲラ笑いながら言った。
「…さあて… 色男の美味しい酒もなくなったし…
…みんな… 今宵の宴はお開きとしようぜ…。
…ミニョン… ごちそうさま…
…またな!
…おっと… チェリンさんでしたっけ… またいずれ…。」
フィリップを先頭に、友人たちは席をたった。
それぞれが、チェリンに一礼して去っていった。
その姿を見送りながら、チェリンはミニョンに言った。
「…おもしろい…方々ね…。
…みなさん… お仕事のお仲間ですか…?」
仲間たちとなにやら目配せをしていたミニョンが笑いながら答えた。
「…ええ…。同じ仕事…建築関係の仕事ですが…その仲間たちです。
…あいつら… いいやつらなんですよ…。
…僕に…気を遣ってさっさと帰ったみたいです…。」
「…あなたに…?」
ミニョンはチェリンを見て言った。
「…そう…。僕と…あなたに… 余計な気遣いを…。
…あいつら… そんなに飲んでいませんよ。
…いつもはボトルを10本も空けるやつらですから…。」
「……!!!」
ミニョンは、もう一度笑いながら言った。
「…チェリンさん…。
…もう一度… やり直しです…。
…僕… イ・ミニョンといいます…。
…よろしく!」
チェリンも、ふっと微笑んだ。
「…私は… オ・チェリンです…。
…よろしくね…。」
二人は、顔を見合わせて笑った。
(…素敵… この人…)
チェリンは、またワインの香りに包まれ始めていた。
-つづく-
あとがき
なかなか先に進まない…。
書き始めると、どんどん長くなってしまう…。
「冬コン」を書いていた時のことを思い出しました。
やばい…。
そんな、予感。
チェリンもきっと… そんな予感を…。
夏のメモランダム 第4話
チェリンとミニョンは、向かい合って座っている。
壁に掛けられたモネの複製画らしい一枚が、ふたりだけの時間を見守っている…。
まわりの客たちの話し声も、異国のBGMのように聞こえていた。
「…お仕事は… 建築関係でしたわね…。
どんな物を造ってらっしゃるんですか?」
「…そうですね…。
…美術館とか… 国際会議場とか…
…ああ…最近は、教会の内装の修復などにも携わりましたよ。」
「…凄いんですね…。
…そういう仕事って… 危ない目にも遭うのでしょう?
…建築材が倒れてきた…なんていうニュースを聞いたことがあります。
…力仕事も多いんでしょうね…。」
「……? ……!!
…そんなことは、ないです…!
…僕… 設計の方が専門ですから…。」
「……!! まぁ!! それは失礼を…。
…私… てっきり工事現場の作業をなさっているんだと…。
…建築設計だなんて… 素敵なお仕事ですわね…。」
(…道理で…高級なワインなどを注文されるわけだわ…。)
チェリンは、今更のように彼の身につけているものに目を向けた。
ほとんどが、パリのオートクチュールで仕立てられたもののようであったが、ところどころに彼のラフな着こなしが感じられた。
(…センスも…合格ね…。)
「…あ。
…そういえば、さっき… 私と同じハンカチを持ってらっしゃいましたね…。」
「…ああ… あれですか…。
…あれは、頂きものですよ。
…友人の結婚式で、頂いたものです。
…あなたもお持ちとは… 偶然ですね…。
…いや… 何かの…運命かな…?」
「…あれ… 私の先生がデザインされた物なんです。
…ご存じでしょうか…。
…ピエール・ダンカン氏…。
…私… その方にデザインを学ぼうと、パリに来たんです。」
「…ダンカン氏…?
…ああ… 知ってますよ…。 有名なデザイナーですからね。
…そうか… 彼の元にね…。
…チェリンさんも、服飾デザイナーを目指しているんですか?」
「…ええ…。
…一応、もう自分のデザインで作品は発表してますけれど…。
…これから…ですね…。
…ダンカン先生を、ご存じなんですか?」
「…ええ、よく知ってますよ。
…まぁ… 僕は彼を知ってますが…
…残念ながら、先方は僕のことなど全くご存じないでしょうね…。」
「……!! まぁ!!」
ミニョンのジョークに、チェリンは吹き出した。
ミニョンもにこやかに話し続けた。
「…本当です。
…よく知ってるんですよ!
…昔から…知ってますよ。
…昔…といっても、1分前からですけれど、ね!」
「……!! ……!!!」
チェリンはおなかを抱えて笑い出した。
その様子を、ミニョンは満足そうな笑顔で見ていた。
「……! …本当に… 冗談がお好きなんですね…。」
「…冗談が好き…ですって?
…いいえ…
…好きなのは… 『女性』ですよ…。」
「………。」
チェリンの息がとまった。
顔に血が上ってくるのがわかった。
その顔を… 上げられない…。
(…どうしたんだろう… 私…。
…こんなに… 胸が苦しくなるなんて…)
おそるおそる視線をあげて、彼の顔を見た。
…爽やかな笑顔…。
…生き生きとした、眼鏡の奥の瞳…。
…楽しそうに組んでいる手…。
(…だめ… …私… この人に… 惹かれてしまっている…。)
ミニョンが静かに言った。
「…チェリンさん…。
…パリがね… 『ロマンスの都』って言われる理由が、ようやくわかりましたよ…。
…窓の外を見てください…。」
チェリンは、言われたとおりに窓の外を見た。
(………?)
窓の外は一面の闇で、看板の照明なども見えなかった。
走る車のライトさえ、見あたらなかった。
「…何も… 見えませんが…。」
チェリンの不審そうな顔を見ながら、ミニョンが言った。
「…でしょう?
…もう… 僕たちしか…いないんですよ…。
…ここには、もう… あなたしか見えません…。」
「……? …… ……!!!」
いつの間にか、他の客たちの姿は消えて、自分たちふたりだけが、店内にいた。
「…もう… とっくに閉店時間になっていたみたいですね!」
片目でウインクしながら、ミニョンがおかしそうに笑った。
「…さぁ、チェリンさん。
…お宅までお送りしますよ。
…僕、車がありますから…。
…行きましょうか…。」
チェリンは、ただ言われるままに立ち上がった。
顔なじみなのか、軽くシェフに挨拶すると、ミニョンはチェリンをエスコートして店を出た。
店の扉を閉めるその時…
あの大時計が、また時を知らせる音が聞こえた。
…何かが… 始まろうとしていた…。
-つづく-
あとがき
短いのですが、これくらいで。
これ以上書くと、あまりにもキザになってしまいます。
ミニョンのジョーク…。
くれぐれも『親父ギャグ』などと言わないでくださいね。
夏のメモランダム 第5話
ミニョンに腕をとられてチェリンは店の外へ出た。
もうすっかりあたりは静まりかえっている…。
地下鉄も最終便が出てしまったのだろうか…。
『お送りしますよ』
そう言ってくれたミニョンの言葉は、特別に魂胆のあるものではないかもしれない。
確かめるようにバッグの中の時計を見ると、すでに日付は変わっていた。
(…こんな時間になるなんて…。)
いつの間に…とチェリンが考え込むほど、ミニョンとの時間は楽しかった。
久しぶりに韓国語で話せる相手だったせいだろうか…。
二人は並んで深夜の街を歩いた。
車は、この先の駐車場に停めたから…とミニョンは言った。
誰もいない街… 二人だけの街…
出会ったばかりの男なのに、不思議と怖いとは思わなかった。
かえって、チェリンは何かを期待している自分に気づいていた。
しかし… ミニョンは、何もしなかった。
この身体は、ずっと震えていたのに…。
「…チェリンさん… 僕と一緒なのは、嫌ですか?」
ミニョンがつぶやいた。
「……? …いえ… そんなこと…ないです…。」
チェリンの言葉にミニョンはクスっと笑った。
「…嘘つき…ですね…。
…ほら… こんなに震えてますよ…。」
ミニョンは、チェリンの肩にそっと手を移した。
「………!」
「…心配しないで…。
僕は… 正々堂々とやりますから…。」
チェリンは、ミニョンの顔を見上げた。
その彼は、思った以上に背が高かった。
(…チュンサンと… 同じくらい…)
チェリンは涙ぐんでいた。
「……!! …チェリンさん?
…大丈夫ですか…?
…僕… 悪いこと言ったかな…?」
「…いいえ… そうじゃないんです…。
…なんでもありません…。」
チェリンはミニョンの顔をじっと見つめた。
彼も、チェリンを見つめていた。
時が止まったような…そのひととき…。
ミニョンが気が付いたように言った。
「…あ。 ここだ…。
チェリンさん… どうぞ…。」
駐車場に着いていたらしい。
ミニョンは助手席のドアを開けた。
白い大型の四輪駆動車だった。
「…ずいぶん…頑丈そうなお車なんですね…。」
チェリンは、想像と違う気がしながらそう言った。
「…ああ…この車ですか?
…そうですね…。
僕… かなり遠くまで出かけることが多いんです。
…いろんな道がありますから、こいつじゃないと…。
この冬も、かなり降ったでしょう?
…普通車じゃ無理でしたよ。
…こういう車…お嫌いですか?」
「…いえ… あなたのイメージと… ちょっと違う気がしたものですから…。」
「…僕のイメージ?
…それは、お聞きしたいなぁ…。
…どういうイメージです?」
「…どうと言われても…。
…そうですね…。
…何か、華麗な…リムジンのような…。」
「……!!
…すごい想像力ですね!
…その想像力… お仕事にも生かしているんでしょう?
…きっと、そうなんでしょうね。」
「………!!」
(…この人… 本当に…チュンサンじゃないのかしら…。)
チェリンは尋ねた。
「…ミニョンさん…。
…本当に…韓国には一度も行ったことがないんですか…?」
ミニョンはシートベルトを締めながら答えた。
「…ええ… 一度も。
…なぜです?
…ニューヨークで育った感じがしませんか?
…垢抜けてない…って言われてるのかな?」
ミニョンは快活に笑うと言った。
「…さぁ、ベルトを締めて…。
…チェリンさん… 準備、いいですか?」
「……? 何の準備ですか?」
「…もちろん… 『心の準備』ですよ…。
…僕… ちょっとだけ、ワインが入ってますから…。
…運転には、十分気をつけますけれど、ね。」
チェリンは、笑顔で言った。
「…大丈夫です…。
…もし事故など起こしたら…
…私… 付き合ってあげますわ…。」
「……!!」
ミニョンはうれしそうに笑うと、車を出した。
チェリンは、あの大時計の音がまた耳の中に響くような感覚を覚えていた。
*
ミニョンの運転は、予想以上に落ち着いたものであった。
パリの街をすり抜けて、チェリンの住む町に近づいた頃には、チェリンは心地よい眠りに襲われていた。
「…チェリンさん… 着きまし…
……。
…チェリンさん… 眠っちゃったんですか…?」
その声に、チェリンはすぐに目を開けた。
「…ごめんなさい…。
…眠ってなんか…いませんよ…。」
ミニョンはそのチェリンの顔を見ながら微笑んだ。
「…ほら…この辺りでいいんですよね…?
…さっき聞いた公園の側ですけれど。」
チェリンはあたりを見回して、自分のアパートの近くであることを確かめた。
さすがに、アパートまで教えるのは気がひけた。
「…ありがとうございます…。
…ここなら、すぐに歩いて帰れます。
…今日は、本当にありがとうございました。」
「…いいえ…。お礼を言うのはこちらの方ですよ。
…素敵な夜でした。
…ありがとうございました。」
チェリンはドアを開けて降りようとした。
そして少し躊躇した後、言った。
「…ミニョンさん…。
…また… お会いできますか…?」
チェリンの胸は静かに息を止めた。
「…チェリンさん…。
…それも…こちらのセリフです…。
…また… お会いできますよね…?」
ミニョンは、チェリンの目の中をのぞき込むように言った。
チェリンは顔を伏せた。
口元がゆるんでくるのを押さえられなかった。
「…ええ…。
…また、お会いしたいです…。
…今度は、私がごちそうしますから…。」
「…それは… 楽しみだなぁ…。
…じゃぁ…待ってます。
…これ…僕のオフィスです。
…いつでも連絡してくださいね…。」
ミニョンが手渡したのは、彼のオフィスのパンフレットらしかった。
「…わかりました…。
…必ず… 連絡させていただきます…。
…では… おやすみなさい…。」
チェリンは少し哀しい目をすると、車を降りた。
(どうして… こんなに、切ないのだろう…。)
ミニョンが言った。
「…チェリンさん…。
…おやすみなさい…。」
その笑顔は、サイドウインドーが閉まるとともに、見えなくなった。
(………!!)
『コンコン!!』
チェリンはそのウインドーを叩いた。
急にこみ上げてきた不安感…。
「…どうしました…?
…何か、忘れ物でも?」
そう言ってウインドーを降ろしたミニョンに、チェリンはドアを開けて抱きついた。
「…ミニョンさん!! 絶対よ!!
…絶対… 連絡しますから!!
…絶対に… ………。」
ミニョンの胸の中で、チェリンは叫んでいた。
「………!!」
ミニョンは、そのチェリンの様子にとまどいながら、そっと肩を抱いた。
-つづく-
あとがき
何か書こうかと思ったのですが、書く必要もないような気がします。
チェリンの気持ちを考えながら書いたのですが、まだ言い足りない何かがあるような…。
とりあえず…おやすみなさい…。
それだけです。
しかし今回「夏のメモランダム」では違うテーマを書こうとしています。
愛された記憶が残ったまま… 今も、僕を泣かせ続ける人です…。
ワインカラーにたなびく雲が、切ないほどに愛おしかった。
モンパルナス・タワーの40階に、その瀟洒なオフィスがあった。
パリの街のどこからでも見ることのできるそのビルは、自分にとって縁のない世界だと思っていた。
フランス人らしい、美しい女性がカウンターに座っていた。
チェリンは思い切って中に入った。
…失礼ですが、どういったご用でしょうか?
受付の女性の目が一瞬光ったのを、チェリンは見逃さなかった。
チェリンの目を、はずすことなく見つめていた。
そのヒールの音が、チェリンにはひどく耳障りに思えた。
今日は、ラフな感じのスーツに身を包んでいる。
少しとぼけた顔をしたその男は、チェリンを見ると興味深そうな視線で笑顔を見せた。
チェリンの好みとはほど遠い男だった。
逸る気持ちで会いに来た自分が、妙に恥ずかしくなった。
この後をじっくり書きたいので。
他にもちょっとした理由はありますが。
同時進行で書こうかな…と思ったら、また50話ほどになりそうな計算になって怖じ気づいてしまいました。
夏のメモランダム 第7話
モンパルナス・タワーのカフェラウンジ。
チェリンはひとりミルクティーを飲んでいた。
窓から見えるパリの街は、次第に夕闇に包まれ始めている。
また… 夜が訪れる…。
『…パリがね… ロマンスの都って言われる理由が、ようやくわかりましたよ…。』
彼の言った言葉を思い出していた。
(…ロマンス…。 私には… 一度も…)
パリの夜は、身も心も…切なく潤ませてしまう…。
気が付くと、いつしか雨模様の空に変わっていた。
時計の針は、すでに約束の時間を過ぎている。
チェリンは、ため息をつきながら、カップの中のミルクティーを飲み干した。
そして、しばらく考え込んだ後、席を立った。
レジのウエイトレスに一言二言何かを伝えると、そのままカフェをあとにした。
チップを渡した時、若いウエイトレスが不思議そうな表情で礼を言い、チェリンの後ろ姿を見送っていた。
*
キムとの打ち合わせを終えた後、ミニョンは逸る気持ちのまま、エレベーターから飛び出した。
約束の時間はとっくに過ぎている…。
カフェラウンジに入ると、ミニョンはチェリンの姿を探した。
しかし、彼女の姿はなかった。
(…怒って帰ってしまったかな…。)
ミニョンは仕方なさそうに苦笑いを浮かべた。
どうせなら…1時間待って、と言えばよかった…。
20分…。
どうして、そんな短い時間を告げたのだろう…。
諦めて帰ろうとしたミニョンに、若いウエイトレスが声をかけた。
「…イ・ミニョン様ではありませんか?」
ミニョンは振り向いた。
「…ええ…。僕…イ・ミニョンですが…。」
ウエイトレスは、ほっとしたように笑顔を浮かべた。
「…あの… お連れ様からの伝言をことづかっているんです。
…あ… お連れ様は、先ほどお帰りになられましたが…。」
ミニョンは、笑顔を返しながらたずねた。
「…そうでしたか…。…で、彼女は何と…?」
ウエイトレスは、何度も間違えずに言おうと練習したのだろう。
美しいフランス語で、それを伝えた。
「『…もし… 糸で結ばれているのなら…
…今夜は、同じパリの雨に濡れていたのでしょうね…。』
…そうお伝えしてほしいと、おっしゃっていかれました。」
ミニョンは、じっと考えた。
(…糸…)
ウエイトレスも、そのミニョンの表情を見つめている。
「…わかりました。 ありがとう。
…これ…お礼だよ。」
ミニョンがチップを渡そうとすると、ウエイトレスは首を振って断った。
「…それは、いただくわけにはまいりません。
…先ほどのお連れ様から、もうすでにいただいたのです。
…それも…100ユーロも…。」
ミニョンは目を丸くした。
(…彼女は…賭けたんだ…。)
「…彼女は… 何時頃帰りましたか…?」
「…そうですね…。10分くらい前でしょうか…。」
(…まだ、間に合うかもしれない…!)
ミニョンは、エレベーターホールの方へ走りかけた。
それをウエイトレスは呼び止めた。
「…あっ、お客様!
…お連れ様は、昇りの方のエレベーターにお乗りになりましたよ。」
「……?」
ここよりの上の階は… 屋上のテラスくらいしか…
(……!!)
ミニョンは、もう一度ウエイトレスに振り返ると言った。
「…お嬢さん! ありがとう!」
そして、急いでエレベーターホールへ向かった。
『上』のボタンを押すと、下から上がってくるエレベーターの表示を見つめた。
いつもは速すぎるとさえ思っていたエレベーターが、こちらを焦らすかのように遅く感じた。
ドアが開ききるのも待てず、ミニョンは身体をすべりこませ、そして最上階のオープンテラスのボタンを押した。
(…外は… 雨なのに…)
雨は、霧のように街に立ち籠め始めている。
ミニョンの胸の中も、静かに濡れ始めていた。
*
パリの街が、雨に煙っている。
チェリンは、美しくかすむイルミネーションを眺めていた。
静かに落ちてくる雨粒は、温かくチェリンの髪を濡らしている。
そしてその雨は、まるで銀の糸のように、細く光りながら身体を濡らしていく…。
(…運命の糸… そんなものがあるのかしら…)
雨に濡れたドレスをまとい、チェリンはオープンテラスに立ち続けていた。
温かな風が近づいてきた。
それは、静かにチェリンの肩を包んだ。
「…チェリンさん… 風邪をひいてしまいますよ…。」
チェリンに掛けたスーツのジャケットの上から、ミニョンはそっと肩を抱いた。
チェリンは微かに身体を固くした。
「…大丈夫です…。
…パリの雨は…優しいですから…。」
チェリンは、街の灯りを見つめたまま答えた。
「……。
…ごめんなさい… チェリンさん…。
…僕… 悪いことをしましたね…。」
ミニョンがつぶやくように言った。
それには答えず、チェリンは言った。
「…こんなお話… ご存じかしら…。
…ご存じのわけ、ありませんわね…。」
チェリンが小さく笑うと、ミニョンがたずねた。
「…? …どんなお話ですか…?」
「…そうですね…。
…あるところに… ミンスとヨンヒという若い男女がいたんです。
…ミンスは凛々しい少年で… ヨンヒは美しい少女でした…。
…ふたりは、それと気づかぬうちに、お互いを好きになっていました。
…でも… ミンスは…
…突然ヨンヒの前から姿を消しました…。
…互いに好きだとも言わず…
…さよならも言わず…
…10年もたって…
…ヨンヒの前に… ミンスが帰ってきました。
…『運命の糸』…
…ふたりはその糸で、しっかりと結ばれていたのですね…。」
チェリンの頬を、熱い雨がつたって落ちた。
「…チェリンさん…。
………。」
ミニョンは、その横顔を見つめた。
潤んだ瞳に映るパリの夜景は、またひとしずく流れて落ちた。
「…チェリン、と呼んでくださってかまいませんよ…。
…ミニョンさん…。
…どうせ、私なんか… ただの通り雨みたいなものでしょうけど…。」
チェリンの言葉に、ミニョンは首を振った。
そして、チェリンの耳元に唇を寄せると、小さく囁いた。
「…これが…仕返し…ですか…?
…意地悪な人だなぁ…。
…悔しいから…
…この数日、毎日あなたが来るのを待っていたんだ… なんて…
…口が裂けても、絶対に言いませんよ…。」
「……!」
チェリンは思わず振り返った。
優しい微笑みが、そこにあった。
(…だめ…。 …この人には… 勝てやしない…。)
チェリンの肩が震えた。
それに気が付いたように、ミニョンが言った。
「…さぁ… チェリンさん… いや… チェリン…。
…そのドレスを着替えに行きませんか…?
…そして… 一緒に行きましょう…。
…『運命の糸』を見つけに…ね。」
「………。」
チェリンは、黙ってうなずいた。
ミニョンは、チェリンの手を取るとゆっくりとエレベーターホールに向かって歩き出した。
手を引かれながら歩いていたチェリンは、ふと足を止めた。
振り返った先に、エッフェル塔が霞んで見えた。
その向こうは、雨に煙って見ることはできなかった。
-つづく-
あとがき
いつもの癖で、時事ネタで。
モンパルナス・タワーのエレベーターは、最上階まで38秒で上がる高速タイプだそうです。
シン○ラー社製かどうかは、調べたのですがわかりませんでした。
「冬ソナ」の中のセリフと、僕自身の過去のセリフ?を、今回も使ってみました。
夏のメモランダム 第8話
エレベーターの中…。
言葉もないふたり…。
かすかに聞こえる、お互いの息づかい…。
吸い込まれるように降りてゆくエレベーターに、チェリンは少し酔ったような気分になった。
ピンポ~ン…
エレベーターは停まった。
ドアが開いたフロアーは40階だった。
「…チェリンさん…。
僕のオフィスのシャワールームを使って下さい。
…大丈夫…。
余計な心配はしないで…。」
ミニョンのあとに続いて、彼のオフィスに入った。
先ほどの受付嬢は退社したのか、もう姿がなかった。
チェリンはほっとして、ため息をついた。
(…あの人… 私に敵意を持ってたわ…。)
あらためて、となりのミニョンを見た。
彼の優雅なたたずまいに、きっと彼女も惹かれているのだろう。
「…さぁ… こちらです。」
ミニョンがシャワールームらしいドアを指し示してくれたとき…
「…理事…?
…戻られたのですか…?」
美しい声…。
湿りを帯びたその声は、韓国語…。
目の前に現れたのは、髪を短くカットした若い女性だった。
自分よりも、少し年下かもしれない…。
そうチェリンは思った。
「…あ。…ヘウン… 君、まだ残っていたのか…。
…チェリンさん… この人は、僕の秘書…みたいな人です。」
その女性の目が、自分を見つめている。
どこか哀しげに、それでいて強い力で…。
(…この目… どこかで見たことがあるような…。)
チェリンが黙っているのを見て、彼女がミニョンにたずねた。
「…理事…。
…こちらの方は…?」
ミニョンは、ちょっと苦笑いを浮かべながら答えた。
「…ああ… こちらは、オ・チェリンさんといって、僕の… 大切なお客様さ。
…あいにく屋上で雨に濡れちゃってね…。
…シャワールームをお貸ししようと戻ってきたんだよ。
…あ… チェリンさん。
…中にタオルやシャンプー類も全て揃ってますから…。
…濡れた服などは、バスケットが置いてありますから、そこに入れてください。
すぐに、階下のクリーニング・サービスに取りにきてもらいますから。
…着替えの服は、今用意させていただきますからご安心を…。」
チェリンを無理矢理押し込むように、シャワールームの方へ入れると、ミニョンは笑顔でドアを閉めた。
そして、ヘウンにむかって言った。
「ヘウン…。
…こういう状況なんだけど… 君に頼みたいことがあるんだ…。
…君にしか頼めないことなんだけど…。」
ヘウンはにっこり笑うと言った。
「…あの方の、着替えの調達…でしょ?
…わかってますよ…。
…さっそく階下のブティックで見繕ってまいります。」
ヘウンは、明るく答えた。
ミニョンは目を伏せながら言った。
「…すまないね…。
…本当に、ありがたく思ってるよ…。
…彼女に合ったものを、よろしく頼むよ。
…サイズなどは… いくつか用意してくれていいから…。」
「…大丈夫ですよ。
…もう、ちゃんと見覚えてますから。
…理事の好みの方なら… どんなものを喜ばれるか、よくわかってますよ…。」
「…ヘウン…。
…馬鹿…。 ………。」
ミニョンは切なげにヘウンの潤んだ瞳を見つめた。
「…理事…。
…ひとつだけ、お願いしてもいいですか…?」
「………?」
ヘウンは、小さな声で言った。
「…その気がないなら… あまり罪なことは、もうなさらないように…。」
「……!!」
ミニョンの胸を、ちょっとつつくと、ヘウンはオフィスを出て行った。
ミニョンはその姿を、じっと見守っていた。
*
まもなく戻ってきたヘウンは、シャワールームのチェリンに声をかけた。
「…こちらに、身につけられるものを全て用意させていただきました。
…いくつかありますから、お好きな物をどうぞ…。」
そう言うと、ヘウンはミニョンの顔をいたずらっぽく見た。
「…理事…。
…私… これでもう3回目ですよ。
…その分のボーナス… 期待してますからね!」
ミニョンはうなずいた。
ヘウンはまぶたをぬぐうと、
「…では… 失礼いたします…。
…素敵な夜を… おやすみなさい…。」
そう言って帰って行った。
やがてシャワールームから出てきたチェリンは、黒いドレスに身を包んでいた。
小さなスパンコールが、妖しく揺れていた。
「…チェリンさん…。
…素敵ですよ…。」
チェリンは恥ずかしげに笑った。
「…すいません… 何から何まで…。
…あ… あの方は…?」
「…? …ああ… ヘウンですか?
…彼女は帰りました。
…彼女… あれでもけっこうファッションにうるさいんです。
…僕の普段着も、彼女が選んでくれることが多いんですよ。
…元々、大学の研究室にいたのですが、今は僕の秘書のような仕事をお願いしているんです。」
言い終わったミニョンは、少し饒舌すぎたかな、と後悔した。
チェリンも小さく笑っている。
「…それは… ありがたい方ですね…。
…で… 彼女には、何もしてあげないのですか…?」
チェリンの目が、射すようにミニョンを見ている。
「………。」
ミニョンは咳払いをすると、静かに答えた。
「…僕は… 仕事に私情ははさみません…。
…それが… 僕のポリシーです。
…僕を… 信じられませんか…?」
チェリンは、うつむいた。
そしてつぶやいた。
「…わかりません…。
…まだ… あなたという人を… よく知りませんから…。」
ミニョンは言った。
「…じゃあ… 僕がどういう人間か… 知ってもらいに行きましょうか…。
…僕は… 食いしん坊なんです…。
…ごちそうを見ると、もう我慢できなくなります…。」
「……!!」
チェリンは頬を染めた。
そのチェリンの顔を満足そうに見つめると、ミニョンは言った。
「…さぁ、何か食べにいきましょう、チェリンさん!
…今夜は… ごちそうしていただけるんですよね…?」
チェリンは視線を外しながら答えた。
「…ええ… お約束ですから… ごちそうさせていただきますよ…。
…ただ… ………。」
「…? …ただ… なんです?」
ミニョンの顔を、もう一度見つめ直すと、チェリンは言った。
「…その気がないなら… あまり罪なことはなさらないでくださいね…。」
「………!」
チェリンは、ドアの向こうで聞いたヘウンの美しい声を、思い出していた。
そして… あの目…。
それも、思い出した。
チョン・ユジン…。
彼女と同じ目だった…。
-つづく-
あとがき
さて…ミニョン像を崩されましたか?
ミニョンは、いったいどの程度…プレイボーイなんでしょうね…。
思った以上に、なかなかストーリーが先に進みません…。
poppo
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