
長編『冬のコンチェルト』

冬のコンチェルト 第1話 「ふたり」
昨日までの雪が、嘘のように晴れ渡ったソウルの街。
風もなく穏やかな冬の光が、そこここに残った雪をまぶしく照らしている。
その街の一角を占めるホテルの小ホールで、今、チンスクとヨングクの婚約式が営まれようとしていた。
チンスクは、チェリンに借りた白のスーツに身を包み、これもどこかで調達してきたらしいベルベットのスーツを着こなしたヨングクと並んで、列席者の温かい祝福の辞を受けていた。
チェリンやサンヒョクも、少し離れた席から、この愛すべき二人に温かいまなざしを送っていた。
「…こうして見ると、やっぱりお似合いの二人よね…。
こうなる運命だったのよ。
…ねえ、サンヒョク、そう思うでしょう?」
チェリンが、となりのサンヒョクにささやいた。
「…ああ…。
僕はずっと、いつかはこうなると思ってたよ。
ヨングクのやつも、あれはあれで意外と堅実なんだよ。
チンスクは、昔からヨングクを好きだったらしいけどね。
…とにかく… よかったな…。」
サンヒョクは、笑顔で挨拶を受け続ける二人を見ながら、そう言った。
「そうね…。
まぁ、ここまで遅かったとも言えるし、決めたら決めたで今日の日はずいぶん急な話だったしね。」
チェリンも笑いながら答えた。
「ああ、それはね、こうなんだよ。
実はね… このホテルの予約は、チンスクのお見合いのために取ってあったんだって。
それが、やつらが急に結婚したいって言い出しただろう?
ご両親も驚いたらしい。
相手先に断りのお詫びもしなくちゃならなかったし。
ここの予約のキャンセルも、間に合いそうになかったみたいだけど…。
…そこで、ちゃっかりチンスクのやつ、婚約式にすり替えたわけさ。」
サンヒョクの説明に、チェリンはもう一度チンスクの方を見てから吹き出した。
「さすが、チンスクね!それだけしっかりしていれば、いい奥さんになるかもね…。」
サンヒョクも、笑顔でうなずいた。
*
婚約式の次第も順調に進み、婚約した二人の友人の挨拶になった。
チェリンは、その華やかなドレスを軽く揺らせながらマイクの前に立った。
「ご列席のみなさま、本日は大変おめでとうございます。
私は、コン・ジンスクの友人、オ・チェリンと申します…。」
チェリンは、にこやかに列席者を見渡しながら、祝いの言葉を述べた。
仕事柄、こういう場もずいぶん板についてきた感じだった。
「…ここで、少しコン・ジンスクのエピソードを、ひとつ…。
…実は… このチンスクは、高校時代は大変不器用な人でした。
とにかく、右手と左手とが一緒には動かせない…。
ピアノの試験では… チンスク、言っても怒らないでね!
…なんと… 5点!」
会場の人々は、爆笑した。
チンスクは、真っ赤な顔で口をとがらせていた。
「みなさま… お笑いになってはいけません。
その彼女だからこそ、高校時代からずっと、彼…クォン・ヨングクただひとりを愛し続けてきたのです。
チンスクの一途さは、この長い年月の間、全く色あせることもなく、美しく、純白のまま今日の日を迎えたのです…。」
チェリンの言葉は、いつしか涙声になっていた。
「…チンスクは… その不器用な片手で、私の仕事をしっかりサポートしてくれてます。
実は、私もピアノは苦手だったんです。5点ではありませんでしたが、私も不器用で…。
私の… 不器用な部分は… 昔から… そして今も… チンスクがしっかり助けてくれているんです…。」
チンスクは、チェリンの顔を涙ぐんで見つめた。
「…チンスクの、もうひとつの手は、今… しっかりヨングクと握り合っています。
彼女は… コン・チンスクは… 今では両手いっぱい! …100点満点の女性です…!」
たまらず駆け寄ったチンスクとチェリンは、抱き合って泣いていた。
サンヒョクをはじめ、列席者のすべてが惜しみない拍手を贈った。
*
サンヒョクの挨拶は、チェリンと比べ地味ではあったが、しっかりと彼らの友情を伺い知ることができるものだった。
列席者たちは、この若者たちの純真さに、時折目頭を熱くした。
そんななごやかな雰囲気の中、司会者がマイクで伝えた。
「今日は、その他にもご友人様から、お祝いの品々が届けられております!」
(………?)
扉の向こうから、2台のワゴンに載せられた品々とともに、花束と大きな名札が出されてきた。
そこには、
『チョン・ユジン』
そして、もうひとり
『カン・ジュンサン』
チェリンとサンヒョクは、顔を見合わせた。
「………。」
-つづく-
あとがき
このストーリーは「冬の挿話 31」および「冬の挿話 36」の直後から始まります。
つまり、ユジンがパリに去った後の最初の冬。
主役二人が不在のソウルから物語は始まりました。
その「空白の3年間」の物語です。
「挿話」では書ききれない話になりそうなので、あえて「冬のコンチェルト」と銘打って書くことにしました。
長編になるのか中編で終わるのか、それは僕にもわからないのですが、気長におつきあいください。
冬のコンチェルト 第2話 「路地」
式場に現れた、二人の祝いの品々…。
それらの包みの前に置かれた花束と名札…。
『チョン・ユジン』
『カン・ジュンサン』
その名を見て、チェリンもサンヒョクもなぜか心が痛むのを感じていた。
「…サンヒョク…。
ユジンに、今日の式のこと… 教えたの…?」
チェリンが、つぶやいた。
「…いや…。
でも… チョンアさんには、ヨングクの病院で会ったとき、話したよ…。」
「…そうなの…。
私は… キム次長に…話したの。
…きっと、彼に伝わると思って…。」
二人は、顔を見合わせて、ちいさくうなずき合った。
ユジンの名前のとなりに置かれた白いばらの花束…。
そして、チュンサンの名前のとなりに置かれた無窮花(ムクゲ)の花束…。
白いクロスの上で、並んだふたつの花束は、なによりも清らかな姿を人々に見せていた。
まるで… あの二人のように…。
「…やはり… あの二人は…」
『お似合いね』と言おうとして、チェリンは口を閉じた。
「…そうだね…。あの二人は…」
『よく似てるね』と言いかけて、サンヒョクも言葉を飲み込んだ。
華やかな式場の中、いつの間にかふたつの花束に、窓からの陽射しが優しく包み込むようにさしていた。
*
婚約式が、無事滞りなく終わった後、ヨングクとチンスク、それにサンヒョクとチェリンの4人は、小さな店で飲んでいた。
それぞれに、疲れた一日だったので、仲間だけで楽にやろうというサンヒョクの提案だった。
「…しかし、疲れたなぁ…。よ~し、今夜は飲むぞ!」
ヨングクは、堅苦しいネクタイをゆるめながら叫んだ。
「私も! …チェリン、付き合ってよね!」
チンスクも、合わせて言った。
「…おい、おい! いつかみたいな酔っぱらいは勘弁だぜ…。」
サンヒョクが、苦笑いしながらチンスクに言った。
「大丈夫! 倒れたら、ヨングクの家に泊まるもの!」
「えっ…! ………これだもの…。 相変わらずよね…。」
チェリンもあきれながら、言った。
「どうせ、二人で朝まで飲むんだろう? 俺たちは早めに帰るぜ。な、チェリン?」
サンヒョクの言葉に、ヨングクがあわてて答えた。
「おい、おい! 早合点するなよ…。
俺も、明日は早いんだよ。
入院してる犬たちもいるし、いい加減で帰るよ。
チンスク! お前も明日から仕事だろう? そうだったよな? チェリン?」
「そうよ。チンスク…。
明日から、また『私の片腕』にはがんばってガンガン働いてもらうわよ!」
「…!! ゲゲッ! …そんなぁ…。」
ボトルをつかんだまましょげかえるチンスクに、みんなは大笑いした。
やはり、この仲間同士で集まるのは楽しいと、それぞれが思っていた。
…あの二人のことも…
みんな、それぞれ黙ってはいたが、頭に浮かべていた。
*
適当にお開きになった4人は、ふたつに分かれて帰ることにした。
ヨングクは、サンヒョクと帰ることにした。
『男同士の話があるから』とチンスクたちに言っていた。
きっと、ユジンたちのことで、サンヒョクの心の内が気になっているのだろう。
チェリンは、チンスクをアパートまで送っていくことになった。
例によって、『大虎』になったチンスクをタクシーに乗せていった。
「…ヨングク…。本当に、おめでとう…。幸せになれよ…。」
ふたり肩を並べて歩きながら、サンヒョクが言った。
「…ああ…。ありがとう…。」
ヨングクは、サンヒョクの横顔を見ながら答えた。
「…でも… お前も… ちゃんと幸せになるんだぞ…。」
「………。」
二人は、人通りもまばらになった街を、ゆっくりと歩いた。
そのとき、すぐ先の路地のあたりから、大きな叫び声が聞こえた。
「だ! 誰か!! 助けて!!」
「…!!」「…!!」
サンヒョクと、ヨングクは顔を見合わせると、同時にその路地に走っていった。
薄暗い路地の中を見ると、一人の酔漢が若い娘の手を取り、引きずるようにして連れて行こうとしていた。
娘は、必死に抵抗している様子だった。
化粧はずいぶん濃くしてはいるが、まだ若い、少女といってもよいくらいの年頃だった。
「だから、悪いようにはしねえよ! とっととついてくりゃぁいいんだ!」
男の手を、ふりほどこうとしてもがいた瞬間、街灯の輪の中にその娘が入った。
その娘の顔が、はっきりと見えた。
(…!! ヒジン…!?)
-つづく-
あとがき
チュンサンとユジンの存在感は、その姿がなくても4人には大きいものだと思います。
それを、ふたつの花束で表してみました。
式場の主役は、ヨングク&チンスクではなくなったのかもしれません。
その後の展開は、「あれ… どこかで見たような…」
これも「冬ソナ」らしさを守る、僕のこだわり…と考えてください。
決してワンパターンでは、ありません!(く、苦しい…)
この後は「僕だけがしっている」 …いやぁ、いい気分!
長編を書いている先輩方の気持ちが、ようやくわかってきました。
冬のコンチェルト 第3話 「妹」
(…!! ヒジン…!?)
気づいたときには、サンヒョクがその男の前に飛び込んでいた。
「…この娘が、何か失礼でもいたしましたか?」
ヒジンは、サンヒョクの姿に気づいた。
「…! サンヒョク兄さん! 助けて!!」
男の手から逃れようと暴れたためか、あちこち擦りむいているようである。
「…ん? なんだ? てめえは…?」
男が、目を怒らせて凄んだ。
「…僕ですか? 僕は…」
少し考えてから、サンヒョクが言った。
「…僕は、『兄』ですよ。 『妹』が何か?」
「…妹?」
気をそがれたのか、男がヒジンをつかまえていた手を離した。
ヒジンは、その隙にサンヒョクの背中に隠れた。
「妹が何か失礼なことでもしたのなら、僕が謝ります。
もう遅い時間ですので、ここのところは、また明日にでも…。
さぁ、ヒジン。帰ろうか…。」
サンヒョクは、ヒジンの手を取って立ち去ろうとした。
「…! 妹だと? いい加減なことを抜かしやがって!!」
男が、サンヒョクに殴りかかった。
サンヒョクは、顔を殴られて、その場にうずくまった。
「サンヒョク兄さん!!」
男は、さらにサンヒョクを殴ろうとした。
(…!!)
その男の顔面に、今度はヨングクの拳が命中した。
男は、後ろに仰向けにひっくり返った。
「…サンヒョク! あとは俺に任せて、とにかくヒジンを連れて行け!
とりあえず俺の病院に! ほら! うちの鍵だ。
…何してる! 早く!」
サンヒョクは、ヨングクに言った。
「そんなこと言ったって、お前はどうする?」
「馬鹿野郎! 俺は医者だぞ! こいつをほったらかしていけるか!」
ひっくりかえって目をむいている男のそばで、ヨングクが叫んだ。
サンヒョクは、しばらく迷っていたが、
「…わかったよ、ヨングク。…じゃあ、後で…。 何かあったら連絡しろよ!」
「ああ。俺も、こいつを何とかしたら、すぐ帰るから…。」
ヨングクが気になりながらも、サンヒョクはヒジンを連れて大通りに向かった。
ヒジンは、足をくじいているらしい。
途中、足元の雪で何度か転んだ。
仕方なく、サンヒョクは
「ヒジン。僕の背中に乗るんだ。」
「…!」
躊躇するヒジンを無理矢理おぶったサンヒョクは、タクシーが通りそうな街角まで歩いた。
ヒジンは、黙ったままサンヒョクの背中で揺られていた。
時折、しゃくりあげているのがわかった。
涙が、サンヒョクの首すじを濡らしていた。
*
ようやくタクシーを拾って、ヨングクの病院に着いた時には、日付も変わる頃だった。
ヨングクから預かった鍵で、中に入った二人は、待合室のソファーに並んで腰掛けた。
「…ヒジン… 大丈夫か…?」
膝に乾いた出血の跡が見えた。
「…大丈夫…。 …サンヒョク兄さん… ごめんなさい…。」
サンヒョクの服も、雪と泥で汚れていた。
とりあえず、勝手知ったる何とかで、奥からコーヒーを入れたカップを持ってきたサンヒョクは、ヒジンに渡した。
ヒジンは素直に受け取って、冷えた身体を温めるように一口飲んだ。
その様子を見ながら、サンヒョクがたずねた。
「…ヒジン…。今時なぜソウルにいるんだい…?
それに… こんな遅い時間に… あんなところで何をしていたんだい?」
ヒジンは、うつむいたまま答えた。
「……バイト…。」
コーヒーカップを持った手が、震えていた。
「…バイト? …そんな…化粧をして… そんなアルバイトなのかい?」
ヒジンはぐっと唇を噛むと、またさめざめと泣き始めた。
「………。」
サンヒョクは、それ以上たずねるのをやめた。
*
一泣きすると、やがてヒジンはぽつりぽつりと事情を話し始めた。
大学受験の下見のために、この週末ソウルに出てきたヒジンだった。
ソウルの街は久しぶりで、その華やかな風は受験勉強の毎日をしばし忘れさせてくれた。
放送部の先輩で、今ソウルの美大に通うパク・スミンのアパートに泊めてもらうことになっていた。
たずねて見ると、パク先輩はいつの間にか都会の雰囲気に染まって、少し派手な化粧の女性になっていた。
その先輩に、今度のアルバイトを紹介されたのである。
この週末は、パク先輩もどこかへ旅行に行くとのことで、その間自分のアパートを使ってかまわないとのことだった。
その代わり、というのではなかったが、自分のアルバイトを二日間代わってほしい、と。
深夜までの仕事だったが、時給が良かったのでヒジンはつい引き受けてしまった。
『ソウルに出てきたら、どうせバイトもするでしょう? あとあと役にたつわよ。』
そう言った先輩の言葉にも、そうかもしれないと思ったのである。
お酒は、未成年ということで、強要はされなかった。
ただ、男たちにお酌をしたり、多少馬鹿話をするだけであった。
タバコの煙や、騒がしい雰囲気に、とまどいも感じながらヒジンは店に出た。
若い彼女は、すぐに男達に目をつけられた。
その中で、今日の酔漢もやたらとしつこく言い寄ってくる一人だった。
適当にあしらってはいたが、無垢なヒジンにはなかなかうまくかわせなかった。
店が終わってから、やっと帰ろうと歩いていると、その男に待ち伏せされていた。
そして、無理矢理に手を引かれ、連れて行かれそうになったところにサンヒョクたちが現れたのである。
サンヒョクは、だまってヒジンの話を聞いていた。
(…なんで… そんなつまらないバイトなんか…)
ヒジンが話し終わった後、サンヒョクが聞いた。
「…バイトなんて…別にすることもないんだろう?」
ヒジンは首を振った。
「私… 演劇をやりたくて…。」
詳しく聞くと、事情がサンヒョクにもわかった。
ヒジンは、ひそかに演劇女優を夢見ているらしい。
ソウルの大学に合格したとしても、ある劇団にも入りたい、と語った。
そのために、いろいろとお金が必要になるだろうこと。
春川の実家からの仕送りだけでは、足りないだろうこと。
姉のユジンも、留学している現在、これ以上母ギョンヒには負担をかけられないこと…。
いずれにせよ、春になったらソウルに出て、働きながらでも演劇を学びたいと思っていることを、ヒジンはサンヒョクに語った。
サンヒョクは、静かに話を聞いてやった。
そして、優しく言った。
「…ヒジン…。 それでも…そんな生活は、お母さんやユジンが喜ばないと思うよ…。」
「……!」
ヒジンは、肩を震わせて泣いた。
その肩に、そっと手を置いてサンヒョクは言った。
「…もう、いらない心配はするんじゃないよ。
お金なら、僕がなんとかできるから…。
実はね… ユジンに返してもらったお金がたくさんあるのさ。
…だから… もうアルバイトなんかはやめるんだよ。 いいね?」
「…! …サンヒョク兄さん…。 ごめんなさい…!」
ヒジンは、サンヒョクの胸にすがって泣き始めた。
「…大丈夫。 お母さんたちには話さないから…。
お前も、お金のことは黙っているんだよ…。」
サンヒョクは、ヒジンの髪を撫でながら、そう言い聞かせた。
*
ヨングクが帰ってきたのは、そのあとだった。
「いやぁ~、参った、参った!」
せっかくの婚約式の服が、しわくちゃになっていた。
ネクタイも締めていない姿で、彼は帰ってきた。
サンヒョクは、ほっと胸をなでおろしながら聞いた。
「ヨングク、いったいどうだったんだい?」
「あん? あのあとか? それは…」
ヨングクの話では、倒れた男を背負って近くの警察署に行ったらしい。
そして、事情を話し、簡単な調書を取ったこと。
あの男が、以前も問題を起こしたことを警察で知っていたこと。
そして、担当警官がヨングクの知人だったこと…。
「実はな、徴兵されてたとき同じ部隊にいたやつが、その警察にいたんだよ。
と、いうよりそいつがいるのを知ってて行ったんだけどな。
そいつに以前、『困ったときにはたずねて来いよ』と言われてたんだ。」
ヨングクは、ちいさくウインクした。
サンヒョクも、笑った。
「…そうだったのか。ちぇっ、心配して損した気分だよ。
…それより、何か薬はないのか?
ヒジンのやつ、あちこち怪我をしてるみたいだから…。」
サンヒョクはヨングクに言った。
「…! お前… さっきも言っただろ? 俺は医者だぞ! おまけにここは病院だぜ?」
そうぼやきながら、ヨングクはヒジンに痛みのあるところを聞き始めた。
思ったほど、ひどくはなさそうであった。
傷の消毒や、簡単な薬を塗ってから、一応明日適当な病院へ行くようにヨングクは話した。
ヒジンは、素直に聞いていた。
「…よ…し。 いい子だ。 とにかく無事で何よりだったね。
もう、危ないところには行くんじゃないよ。
痛み止めの薬もあげるから、寝る前にでも飲んでおきなよ。」
ヒジンは、頭を下げて言った。
「…はい、わかりました…。
…ヨングク先生…。
意外と… 優しい方なんですね…。」
「…! そうさ。俺は心優しい医者だよ。よく覚えておくんだぞ!」
サンヒョクが笑いながらヒジンにささやいた。
「…この先生、実は『婦人科』になりたかったそうだよ。
あんまりおだてると、そのうち薬と一緒にドッグフードも食べさせられるからね!」
ヒジンは、クスっと笑った。
「サンヒョク! つまらないこと言うなよ!
…そんなことより、もう遅いぜ。
早くヒジンを送って行かなきゃ…。」
「あ、そうだな。…ヒジン、宿まで送るよ。
まだ、タクシーが走ってるだろうから…。」
(「冬のコンチェルト第3話 後編」につづく)
(「冬のコンチェルト第3話 前編」から)
*
タクシーを拾って、二人はヒジンの泊まっているアパートに向かった。
夜のソウルの街は、まだネオンの光をあちこちに残していた。
その光を瞳に映しているヒジンの横顔は、やけに美しく、また哀しく見えた。
ふと、ヒジンがうつむいたまま言った。
「…サンヒョク兄さん…。
私… 男の人におんぶされたの… 初めて…。」
(……。)
そういえば、ヒジンは物心がつく前に父ヒョンスを亡くしているんだった…。
サンヒョクは、初めてヒジンの生い立ちを思った。
「…サンヒョク兄さん… 私… お姉ちゃんより…重かった?」
「え? ……。 …! 何のことかと思ったら…。
…ヒジン…。 僕は、ユジンをおぶったことなど一度もないよ…。」
「……!」
ヒジンは、顔を上げた。
そして、ちょっと笑みを浮かべて、またうつむいてつぶやいた。
「…よかった…。」
(…?)
怪訝な表情のサンヒョクの顔が、車の窓に映っていた。
「…明日、ちゃんと春川に帰るんだよ。いいね?」
「…はい…。」
ヒジンは安心しきった表情で答えた。
「…しかし… そのパク先輩っていうのも… なんだかかわいそうだな…。
僕たちの後輩なんだろう?
ソウルになんか、来なかったら…。」
哀しげな顔でサンヒョクは、つぶやいた。
「…ヒジン…。春川に帰ったら、もう一度じっくりと考えるんだよ。
自分を大切にすることも、ちゃんと考えて、ね。
自分の気持ちや夢は、あきらめちゃいけないけれど…。」
「…サンヒョク兄さんは… 夢を、あきらめてないの…?」
「……?」
ヒジンは、サンヒョクの左手の指輪を見つめていた。
それを隠すように、ポケットに入れながらサンヒョクは答えた。
「…夢、か…。夢は、醒めることもあるし、消えることもあるよ。
あきらめなきゃいけない夢もあるさ。
それでも、努力することは大切だよ。 ヒジン。
報われない努力は、確かにあるけれど…
でもね… 人生には、無駄な努力っていうものはないんだよ…。」
ヒジンは、サンヒョクの横顔を見つめ続けていた。
-つづく-
あとがき
ヒジンの年齢をミスっていて、書き直し。
少し、長くなりました。
今後のストーリーもいくつか変更。
3話分が、消えてしまいました。
でも、またあらたに浮かんだストーリーも。
ユジンの「体重」を背中で感じたチュンサン(「塀越え」の時ですね!)。
それを知らないサンヒョク。
ここでも二人は対照的です。
一生懸命考えて書いていれば、無駄にはならないと信じてます。
冬のコンチェルト 第4話 「母の心」
ヒジンを送った後、サンヒョクは自宅に帰った。
もうすっかり真夜中になっていたので、玄関の鍵もそっと開けて家に入った。
「…サンヒョク…?」
壁の小さな灯りを点けて、チヨンが声をかけた。
「…! あ、母さん…。 まだ起きてらっしゃったんですか?
ごめんなさい…。起こしてしまいましたか…。
すぐに寝ますから、母さんもやすんでください。」
サンヒョクは小声でそう言うと、階段を昇ろうとした。
「…あなた…。その顔、どうしたの…?」
「…?」
チヨンは、息子の姿をまじまじと見て、そう言った。
サンヒョクの顔には、大きな痣が残っていた。
よく見ると、服のあちこちも汚れている…。
「サンヒョク…。あなた、誰かとケンカでもしたの…? 違う?
…あらあら…! ひどいなりで…!」
気がついて見ると、自分の服はかなり汚れていた。
たしかに殴られたほほにも痛みがあった。
「ああ…。これですか…。これは… あの… ちょっと飲み過ぎて… 転んだんですよ。
…ご心配なく。 ヨングクにも診てもらいましたから…。」
サンヒョクは、適当に嘘を言った。
チヨンは、じっとサンヒョクの様子を見ながら言った。
「…そんな嘘をついたりして…。
何があったの?
ヨングクに診てもらったって… あの方は獣医でしょ?」
(あいかわらず… 母さんは、するどいな…。)
サンヒョクは笑いながら、答えた。
「…すいません。転んだのは嘘ですが、酔っぱらったのは本当ですよ。
仲間とふざけてて、このありさまです。
…心配することなどありませんよ。
ですから、早くやすんでください。
父さんも、起きてしまうし…。」
チヨンは、まだ何かしっくりこない表情であったが、あきらめたように言った。
「…とにかく、ちゃんとお医者さんに行きなさいね。
…本当に、もう…。困った人だわ…。いい年して…。」
「はい、はい! 申し訳ありません、母さん。
では、おやすみなさい。」
そう言って母のカーデガンをかけ直してあげると、サンヒョクは部屋に入った。
*
ベッドに入ったサンヒョクは、今日一日のことをあれこれ思い出していた。
ヨングクたちの婚約式のことは、本当によかったとあらためて感慨深く思った。
高校時代のことも、脳裏をめぐった。
ヨングクのそばには、いつもチンスクがいた。
そのそばには、自分もいつも一緒にいたっけ…。
そして… ユジンも…。
(……。)
…ヒジン…。
ヒジンのことも、気になった。
明日、ちゃんと春川に帰るだろうか…。
子供だと思っていた彼女が、いつの間にか大人の世界に入ろうとしている…。
もうすぐ高校も卒業するのだから、当たり前のことだったが。
別れ際に、幾枚かの紙幣をヒジンに手渡していた。
『バイト代のかわりだよ』などと言った自分が、今になって不愉快になった。
若い彼女に、お金のことで頭を悩ませるようなことはしたくなかったのだが。
おぶった彼女の吐息が、耳元に残っていた。
それを思い出して、妙に寝苦しかった。
母のことも、思った。
遅くまで起きたまま、自分の帰りを待っていた母…。
サンヒョクの婚約式のことも、母には話さずにいたのに、『行ってきなさい』と送り出してくれた。
自分の心を気遣ってくれたのだと思った。
この1年ほどは、ずっと沈み込んでいた母であったが、この頃はようやく起きて料理などもするようになっていた。
(…きっと… あのチェリンのおかげだな…)
サンヒョクは、そう思った。 (poppo注:「冬の挿話36」参照)
そういえば、チェリンにはそのことのお礼を言っていなかった。
立ち聞きをしたことで、つい言いづらくなっていたためだったが…。
(やっぱり、ちゃんとお礼を言っておくべきだよな…)
明日にでも、チェリンの店に行っておこうと決めたサンヒョクは、ようやく疲れがでてきた身体で寝返りを打った。
*
チヨンは、ひとりベッドの中でサンヒョクのことを考えていた。
(…いったい… 何があったのだろう…。)
はっきりとは言わなかったが、息子がなにやら嘘を言っているのはわかっていた。
母である自分には言いにくいことなのかもしれない。
余計な心配をかけたくないという、優しいきもちであることもわかっていた。
この1年ほどの間、自分はチヌの「不貞」を恨んだまま過ごしてきた。
今になって思えば、サンヒョクの心も自分と同じように傷ついていたはずである。
いや、もしかすると自分以上に…。
自分の知らない「兄」がいたことですら、ショックであろうに…。
その「兄」と自分の婚約者とのこと…。
その、苦しい思いを抑えて日々を送っている息子に、自分は何もしてあげられなかった…。
チヨンは、自分の「母親」としての自信を失いかけていた。
それが、あの娘… チェリンの言葉で救われたように思った。
自分と同じ「女」としての気持ちを、あの娘は理解してくれているように思えた。
娘のいない自分に、初めて感じた感情も抱いた。
(…あんな娘が… サンヒョクと一緒になってくれたら…)
「……!」
チヨンは、急に明るくほほえむと、安心したように眠った。
明日、チェリンの店に行ってこようかしら…と思いながら…。
*
次の朝早く、チヨンはチェリンのブティックに出かけた。
途中、デパートにも寄って、いくつかの品物も買った。
チェリンに対するお礼の気持ちであった。
久しぶりのデパートでの買い物で、少し疲れた気もしたが、何かさわやかな気分であった。
そんな思いにしてくれたのも、チェリンのおかげだと思った。
チェリンの店は、休業明けでにぎわっていった。
店員に案内を乞うと、2階のオフィスに案内してくれた。
チェリンも、こころよく会ってくれた。
「おばさま、おめずらしい…。その後、いかがですか?」
チェリンは、明るい笑みを浮かべてたずねた。
「ええ…。おかげさまで、ずいぶん元気になったのよ。
ありがとうね…。チェリン… あなたのおかげよ。」
チヨンは頭を下げた。
あわててチェリンが言った。
「いいえ!おばさま、そんな!
お礼を言いたいのは、私の方ですわ。
私も、ずいぶん心が軽くなりました。
…こうして… 仕事にも夢中になれてます…。」
「……! ああ、お忙しいところにおじゃまして、ごめんなさいね。
今日は、先日のお礼に、ちょっと寄らせてもらっただけですから…。
それはそうと、チェリン…。
昨日、うちのサンヒョク… なにかあったのかしら…?
あなた、何かご存じない?」
「…? なにか…とおっしゃると? 格別なにも…。
昨日のチンスクとヨングクの婚約式では、特に…。
その後、4人でお酒も飲みましたが、楽しい話ばかりでしたよ。
サンヒョクは、ヨングクと一緒に帰ったはずですが… なにか変わったことでも?」
「そう…。 いえ、ちょっと帰りが遅かったものだから…。
わかったわ。ありがとう。」
チェリンの言葉に、チヨンは答えた。
そのチヨンの様子に首をかしげながら、チェリンはふと昨日の婚約式を思った。
ユジンとチュンサンのことも…。
(やはり… サンヒョクはまだ…)
サンヒョクの性格を思って、チェリンは胸がしめつけられるような気がした。
「…チェリン。 …あなた… うちのサンヒョクをどう思う?」
「…? どう思う…って… どういう意味でしょうか?
まぁ、仲のいい友達ではありますが…。」
チヨンは、少し当てがはずれたような表情で言った。
「…いえね…。 実は… あなたの… お婿さんとして… どうかな…って…。」
「…!!」
チェリンは驚いた。
そんなことは、今まで考えたこともなかった。
チヨンに言われて、急に恥ずかしくなった。
そんな… そんなこと… ありえないわ…。
「おばさま…。 それは… 困ります。
私は… そんな目でサンヒョクを見たことはありませんから…。
たしかに、彼はいい人です。 でも…。
それと、これとは… また別の話ですから…。
ごめんなさい…。 失礼な答え方かもしれませんが…。」
チェリンは頭を下げて、チヨンに言った。
「…いえいえ、チェリン。ごめんなさい。
私の方が、失礼だったわ。 許してね…。
私ったら… 本当に親馬鹿ね…。」
寂しげに笑いながら、チヨンは言った。
その様子を困った表情で見つめながら、チェリンは言った。
「おばさま…。サンヒョクには…もっと時間が必要なのではないかと思います…。
私も… こう見えても、どこかでまだ時々… 。 昨日だって…」
「……? 昨日…?」
いぶかしげなチヨンの表情に気づいたチェリンが、明るく言った。
「…昨日… そう、飲み過ぎたんです。
サンヒョクも、きっとそうですよ!」
チヨンは、そのチェリンの瞳の中の涙には気づかなかった。
(「冬のコンチェルト第4話 後編」につづく)
(「冬のコンチェルト第4話 前編」から )
*
サンヒョクが、チェリンの店にやってきたのは昼過ぎになってからであった。
近くの病院で顔の痣に湿布を貼ってもらっていた。
この顔でチェリンに会うのは、なんとなく気が重かった。
どうせあれこれ理由をたずねられるだろう。
ヒジンのことを話すのは、気が進まなかった。
適当な嘘を考えながら、サンヒョクはチェリンのブティックに入った。
「あら、サンヒョク…。…どうしたの、その顔…。」
(…。やっぱり… そうだよな…。この顔じゃ…。)
サンヒョクは、それでも笑いながら答えた。
「ああ… この顔? …昨日飲み過ぎちゃって… 転んだんだよ…。」
チェリンは、ジロリと一瞥した後言った。
「相変わらず、嘘が下手ね…。
…ちゃんとチンスクから聞いてるわよ…。」
(…!! …あいつら!)
ヨングクがチンスクに話したんだろう。
チンスクに知られたら、もう世界中に知れ渡ったのと同じだ…。
仕方なく、サンヒョクは簡単に昨夜の出来事を話した。
もちろん、ヒジンのアルバイトのことについては話さなかったが。
「…ふ~ん…。そんなことがあったの…。
それは大変だったわね…。
で、ヒジンはちゃんと帰ったの?」
「う~ん… 確かめてはいないけど、たぶん今頃は帰りの列車に乗ってるだろうよ。」
サンヒョクは答えた。
「それにしても、ひどい顔になったわね…。
お母様が心配するはずね。」
「…? 母さん? なんで母さんのことを?」
サンヒョクはチェリンにたずねた。
「あ…口がすべっちゃった!
実は… さっきあなたのお母様がいらっしゃったの。
心配してたわよ…。
まあ、そんな事情なら、言えない気持ちもわかるわ…。
…ユジンの妹だしね…。」
チェリンはサンヒョクの気持ちもわかっているようだった。
「そうそう… チェリン…。今日ここに来たのはね… 君にお礼を言おうと思ってたんだ。」
「お礼? …何の?」
チェリンは不審そうに聞いた。
「実はね… この間、君がうちに来たとき… 僕… 立ち聞きしちゃったんだよ…。
ごめん…。 黙ってて。
昨日にでもお礼を言わなきゃいけなかったのに…。
君のおかげで、母さんもずいぶん元気になってきたんだ。
…母さんがここへ来たのかい?
それもきっと、君へのお礼だったんだろう?」
チェリンは笑いながら答えた。
「…! な~んだ…。知ってたの…。
そうよ。お母様が丁寧に贈り物まで持って来られたわ。
あなた…。 お母様をいたわってあげてね。」
「ああ…。わかってるよ。
とにかく…チェリン。 …ありがとう。」
サンヒョクは、チェリンに頭を下げながら言った。
「…そんなふうに言われると… 困ったわね…。 私も白状しなくっちゃ…。
実はね、サンヒョク…。 私… チンスクから、何も聞いてなかったのよ…。」
(……!!)
二人は、顔を見合わせて笑った。
-つづく-
あとがき
あいかわらず、チヨンは…! ですね。
サンヒョクの嘘。
おしゃべりなチンスク(今回は濡れ衣ですが…)。
そして、カマをかけるチェリン。
「冬ソナ」本編での彼らの性格・行動は、変わらず健在です。
今回までが、「冬のコンチェルト」のプロローグ、といったところです。
冬のコンチェルト 第5話 「約束」
ヨングクたちの婚約式から一週間後。
サンヒョクは、久しぶりに春川のユジンの家を訪ねた。
母のチヨンが入院した際にもらったお見舞いの、お返しの品を携えていた。
そして、ヨングクたちの婚約の祝い返しの品々も、彼らから預かっていた。
ソウルを発つ前に、ヨングクに会って、それらの品々を託されたのである。
「ごめんな、サンヒョク。お祝いをいただいたくせに、失礼なことで。
本当なら俺たちが行かなきゃいけないのに…。
ちょうど『入院患者』が増えちゃってさ…。
チンスクも、ちょっと体調が…。
すまないが、ユジンのお母さんにくれぐれも、俺がお礼を言っていたと伝えてくれよ。」
ヨングクは、申し訳なさそうに言って、祝い返しの品々を手渡した。
「ああ、言っておくよ。
俺の方は、構わないから。
…ちょうど、届け物もあることだし… 気にするなよ。」
「本当に… すまない。 恩に着るよ。」
*
ユジンの家の前の石段を上がりながら、サンヒョクは昔のことを思い出していた。
今は… この家にはユジンはいない…。
そして、僕のそばにも…。
ギョンヒは、変わらずに喜んで迎えたくれた。
「サンヒョク。よく来てくれたわね。
遠いところをありがとう。
その後、お母様のお加減はいかが…?」
「ええ。おかげさまでだいぶ元気になりました。
ありがとうございます。」
居間に通されると、ヒジンも顔をのぞかせた。
ヒジンは、少しばつの悪そうな顔をして言った。
「…サンヒョク兄さん… いらっしゃい…。
…お久しぶり…。」
サンヒョクは、そのヒジンに小さくウインクして言った。
「ああ… ヒジン…。 お久しぶり。」
ヒジンは、ほっとしたような顔をした。
携えてきた品々を渡し終えると、サンヒョクは居間のヒョンスの写真に手を合わせた。
ユジンとのこと… 数々のことを、詫びる気持ちだった。
「サンヒョク。 お昼、まだでしょう? 一緒に食べていかない?
といっても、トックくらいしかないけれど…。」
ギョンヒが、声をかけた。
「…ええ…。そうですね…。そういえば、おなかがすいたなぁ…。ごちそうになります。」
「…よかった…。じゃあ、すぐに用意するわね。
ヒジン、サンヒョクにお茶を出してね。」
「はあい!」
お茶を持ってきたヒジンが、台所のギョンヒに聞こえないかと気にしながら言った。
「…サンヒョク兄さん…。 この間は、ありがとう。
本当に… 助けてもらって…。」
怪我の方も、すっかり良くなったとヒジンは言い添えた。
「別に、お礼なんていいんだよ。
…それより… ちゃんと勉強してるかい?
自分の将来を、しっかり考えただろうね?」
サンヒョクは、優しく言った。
「はい。自分なりに、いろいろ考えました。
大学も、ちゃんと受けるつもりです。」
「それはよかった。…もう少しだから、頑張るんだよ。」
サンヒョクも、ほっとして笑顔で言った。
「あのね… サンヒョク兄さん…。」
ヒジンは迷っているような表情の後、声を落として言った。
「来月… 受験の関係で、またソウルに行くんだけど…
その時… 会ってもらえる…?」
「……?」
サンヒョクは、ヒジンの顔を見た。
ヒジンは、赤い顔をしていた。
「…お仕事の邪魔はしないから… ソウルの街で、一緒にご飯でも食べたいな…って…。」
サンヒョクは、少しとまどいながら答えた。
「…それは… 別にかまわないけど… そんな時間があるのかい?」
「ええ。2,3日ゆっくりできると思うわ。
また、パク先輩のところに泊まることになってるの…。
あ。…もうアルバイトはしないから… 心配しないで…。」
ヒジンはうつむいて、答えを待った。
「来月…ねぇ…。…2月、2月… 2月のいつ頃?」
サンヒョクは、妙に照れ隠しのような表情になって、スケジュールブックを出して調べた。
「…2月の…16日から三日ほど…。」
ヒジンは心配そうに見つめていた。
「…! あ…。その頃は、ちょうど出張が入ってるんだ…。」
「出張? どこに行くの…?」
ヒジンはがっかりした顔で聞いた。
「その時期はね…。 大邱でクラシック・コンサートの公開録音があるから、そっちへ行ってるよ…。」
サンヒョクは、スケジュールブックを見ながら答えた。
ヒジンは、じっと考えているようだった。
「サンヒョク兄さん…。 そのコンサートに、私も… 行っちゃだめ…?」
「…え? お前が? …だめじゃないけど… 大邱はソウルからもちょっと遠いぜ?
それに… 僕は、仕事してるんだよ?」
ヒジンは、何かを決めたような顔で言った。
「…私… 兄さんの仕事をしてるところも見てみたいの… だめ?
絶対、邪魔はしないから…。」
「そんなこと…言っても…。」
サンヒョクの渋る様子を見ながら、ヒジンはつぶやいた。
「…お姉ちゃんたちばっかり… ずるい……。」
「…え? …ずるいって… 何が?」
「…だって… スキー場のコンサートだって… 私は、連れて行ってもらえなかったわ…。」
ヒジンの今にも泣き出しそうな顔を見て、しかたなくサンヒョクは言った。
「わかったよ… ヒジン。 コンサートのチケットを用意するよ…。」
「…! うれしい! サンヒョク兄さん、ありがとう!」
あっという間に、笑顔に戻ったヒジンに、サンヒョクは言った。
「本当に… お前は… 今のままでも、十分女優だよ…。」
「…?」
ヒジンは、そのかわいい唇をちょっとすぼめて首をかしげた。
*
「じゃあ、ソウルに着いたら連絡するんだよ。
え~と… ヒジン、お前、携帯持ってるかい?」
「ええ。 …これ。」
「その携帯の番号を、教えてよ。僕の携帯に入れておくから…。」
「はい。…番号は… ○○○○-○○………」
サンヒョクが、自分の携帯番号をメモリーに入れるのを、ヒジンはうれしそうに見ていた。
「…○○○○-○○○……と… …? ん? …この番号は……。」
サンヒョクの表情の変化に気づいたヒジンが、寂しそうに言った。
「…やっぱり… わかっちゃったのね…。 …そうよ…。
この携帯は… お姉ちゃんのお古…。
まだ、サンヒョク兄さんの中に入ってるのね…。」
サンヒョクは、ヒジンの顔を見ながら答えた。
「…ユジンは… フランスに行ったから… それをくれたのかい…?」
「…そう…。 私… 新しいのが欲しかったのに…。…でも…。」
サンヒョクは、静かに言った。
「…ヒジン…。 大丈夫。 今、この番号を…君の名前に書き換えるから…ね…。
…チョン・ヒジン…っと…。」
サンヒョクは、ユジンの名前を一文字ずつゆっくりと消していった。
そして、ヒジンの名前を新しく打ち直した。
途中で、文字がにじんで見えなくなりそうだった。
ヒジンは、そんなサンヒョクの様子を黙って見つめていた。
「…ヒジン… 。そっちの携帯には、僕の番号を入れておくといいよ。 番号は…」
サンヒョクは、自分の番号を言おうとした。
「…いいの…。サンヒョク兄さんのは。」
「……?」
不思議そうなサンヒョクの顔を見ながら、ヒジンは言った。
「…お姉ちゃんは… これをくれる時に、番号やメールなどは全部消したみたい…。
でもね… サンヒョク兄さんの番号だけ… それだけ…残ってた…。」
「……!!」
サンヒョクは、その携帯を見つめた。
ユジンの… 何度もそこにかけた、あの頃の自分…。
(……ユジン……。)
「…どうしてなのかな…。 お姉ちゃん… ずるいわ…。」
ヒジンの声に、サンヒョクは気がついて、笑い顔を見せながら言った。
「…きっと、消し忘れさ…。…いや… それとも… ヒジンをよろしくってことなのかな?」
「…え?」
ヒジンは、顔を上げた。
「ヒジン。 僕は、ユジンのかわりにお前を守ってあげるよ…。これからもね。」
「……。」
ヒジンは、サンヒョクの言葉の意味を、どう受け取ったのか、急に涙ぐんで答えた。
「サンヒョク兄さん…! …ありがとう!」
「…さあ… おまたせ! できたわよ!」
台所からギョンヒが出てきたので、二人はそれっきり話すのをやめた。
トックの器がみっつ、温かな湯気を立てながら運ばれてきた。
「…サンヒョクは、辛いのが好きだったかしら?
もし足りないようだったら、そこにあるコチュジャンを使ってね。」
ギョンヒが、にこにこ笑いながら言った。
サンヒョクは、そのコチュジャンを見ながら『あの日』を思い出した。
(…あの日は… コチュジャンを入れすぎたんだよな…)
懐かしい情景を思い浮かべたサンヒョクは、やがて静かに箸をとった。
-つづく-
あとがき
サンヒョクの言葉は、ヒジンに誤解を生じさせるものにしました。
日本語だからかもしれませんが。
「誤解」はもちろん「冬ソナ」のキーワードです。
今回は、携帯電話のメモリーの書き換え場面がメインです。
もっと、ドラマティックに書けるといいのですが、僕の力ではこんな程度です。
頭の中での映像は、とても泣けるシーンなのですが。
「お古」というヒジンの言葉も意味深でしょう?
コチュジャンの「あの日」は、もちろん高校1年の初雪の日のことです。
今回の話を読んで、もしかしたら「あの事件」に思い至った方もおられるかもしれません。
もし、わかったとしても、しばらくは内緒にしておいてください。
とっておきの素材なので…。
とりあえず、第7話をアップするまでは、黙っていていただきますようお願いいたします。
冬のコンチェルト 第6話 「Choco」
2月の初旬の日曜日。
チェリンのブティックは、休業日であった。
しかし、店内では照明のまぶしい光の中で、チンスクのウェデイングドレスの試着が行われていた。
「どう?チンスク。 …きつくない…?」
背中のファスナーを上げながら、チェリンがたずねた。
「…うん、大丈夫よ。
…本当に…素敵なドレス…。
チェリン… ありがとうね…。」
すでにチンスクは、胸が詰まってきているのか、涙声で答えた。
「きっと、ヨングクもびっくりしちゃうわよ!
新婦が入場してきた時、『おや、別人だ!』なんて…。
あ、これは失礼!
…チンスク… きれいよ…。
幸せになってね…。このドレスの分まで…。」
「…え? このドレスの分まで…って?」
チンスクは、瞬きをしながらたずねた。
「…ごめんね…。 実は、これ… 以前ユジンのために作ったものなの。
あなたに合わせて、少し作り直してはあるけどね… ごめんなさいね…。」
忙しいチェリンの日常を知っているだけに、チンスクは首を振って言った。
「いいのよ… チェリン。 私、全然気にならないわ。
…そうだったの…。 そういえば、見たことのあるデザインだわね。
きっと… ユジンも喜んでくれるはずよ。
私も、なんだかユジンがそばにいるようで、うれしくなってきちゃった…。」
二人は、鏡の中のお互いの姿を、笑顔で見つめていた。
「…さて、あとはティアラね…。はい!チンスク…。これは、私のサービスよ。」
チェリンは棚の中から、ひとつのティアラを持ち出してくると、チンスクの髪に付けた。
鏡の中のチンスクが、さらに輝きを増したようだった。
「…チェリン…。これ…高いんでしょう…? いいの…?」
不安そうなチンスクに、チェリンは笑って言った。
「あなた、これを時々こっそり付けていたでしょう?
知ってるわよ… 私。
そんなに気に入ってるのなら、あなたが付けるべきよ。
ね? とっても似合うわ…。
チンスクじゃないみたい…。 あ、ごめん!またまた失礼!」
チンスクも笑いながら言った。
「…えへっ! ばれてたんだ…。ごめんね、チェリン…。
でも、本当にこれも素敵…。
あ~! 早く結婚式の日にならないかしら!」
「…! あきれた! やっぱりチンスクだわね…。
さぁ、試着が終わったら脱ぎましょうよ。
仕上げのスパンコール付けもあるんだから…。」
チンスクは、名残惜しそうに鏡の中の自分を見ていたが、
「…ねえ… チェリン…。 なんだかちょっと…
ウエストのあたりがゆるくないかしら…。
見た目では、あまり変じゃないけれど…。」
チェリンは、にっこり笑って答えた。
「…気が付いた? そうよ。これは、あなたに合わせてそのあたりをゆるめに作ってあるのよ。」
チンスクは、目を丸くして言った。
「まぁ、失礼ね! あんまりじゃない?
私がいくら、ちょっとふっくらだからって…。」
「…違うわよ、チンスク…。
それはね… あなたのおなかの中の方への配慮よ。」
「…?」
「…チンスク…。 私も、女なのよ。 すぐわかるわよ…。
あなた… おめでとう…。」
「……!!」
チンスクは、みるみる瞳に涙を溢れ出させた。
「…チェリン!!」
二人の友は、互いの身体を抱きしめ合った。
*
…そして、2月の14日。
チンスクとヨングクの結婚式が、ソウルのホテルで盛大に行われていた。
サンヒョクやチェリンもその式に参列して、二人の門出を心から祝っていた。
参列した人々は、口々に新婦のチンスクの美しい姿を褒め称えていた。
ヨングクも時折ぽかんと口を開けて、その愛らしい妻の姿に見惚れているようだった。
「本当にきれいだよな…。
チェリン… 君のデザインのドレス… 素敵だよ。
さすが、『オ・チェリン』だよ。」
サンヒョクが隣の席のチェリンに言った。
「…当たり前でしょう? 私、これが仕事なんだから。
まぁ… ありがとう。
あなたに褒められても… なんだかうれしくならないんだけど…。」
相変わらず、センスがいいとは言えないサンヒョクの堅実なスーツ姿を見ながら、チェリンが言った。
サンヒョクは苦笑しながら続けた。
「そうそう、チンスクのやつがさ、あのウェディング・ケーキをホワイトチョコで包んでくれと言ったそうだよ。
今日がバレンタイン・デーだから…だってさ!
さすがにヨングクも断ったそうだよ。
『いったい、いくらかかっちゃうんだ!?』ってね。
チンスクは、『10年分、チョコが食べられるわ!』って答えたそうだよ。」
チェリンも思わず吹き出して笑った。
「本当に、あの二人はお似合いね…。」
ケーキに入刀する緊張気味の二人を見守りながら、サンヒョクもつぶやいた。
「ああ…。やはり…運命ってやつだな…。」
サンヒョクの目に、うっすらと光るものがあった。
*
結婚式のあと、新婚旅行に出かける二人を見送ったサンヒョクとチェリンは、空港側のレストランで一緒に食事をとっていた。
「しかし、あいつらも何でこんな寒い時期に、日本の、それも北海道を新婚旅行に選んだんだろうね…?」
サンヒョクは、目の前のハンバーグをナイフで切りながら言った。
チェリンも、パンをちぎりながら答えた。
「どうも、ヨングクの希望だったみたいよ。
何とかいう、とっても素敵な動物園があるんだって。
そこへ行きたかったみたい。
休みも三日だけだしね。
ハワイなどは… チンスクが、あの身体で… 泳げないからって。」
「へぇ~ そうだったのか。…それでも寒いところはチンスクの身体にも良くないだろうに…。」
「…そこは、ヨングクの口のうまさよ。
『北海道で、ホワイト・チョコを一杯食べよう!』だって!
チンスクも、ウェディング・ケーキのことがあるから、いちころよ。」
サンヒョクは大笑いした。
「なるほど…。いいなぁ… あいつら…。」
サンヒョクの、うらやましそうな顔を見ていたチェリンが、ちょっと表情を整えると
「…はい! …これ…!」
サンヒョクの前に小さなバスケットを出した。
「……?」
サンヒョクは、不思議そうにそのバスケットを見た。
そこにはチョコがいくつも詰められていた。
「…私からの贈り物よ。
…もう… うらやましくないよね…?」
サンヒョクは、どぎまぎしながらチェリンの顔を見た。
チェリンは顔を窓の外に向けている。
少し、照れているようだった。
サンヒョクも、恥ずかしげに言った。
「これ…知ってるよ…。
日本では『義理チョコ』って言うんだろう?」
チェリンが振り向いた。
「…失礼ね! あなたって人は…。
…せめて『友情チョコ』って言ってよね!」
ふくれっ面のチェリンを見つめながら、サンヒョクは言った。
「…チェリン… ありがとう…。
俺… とってもうれしいよ…。」
チェリンは、それに答えずに、窓の外の景色に目を向けていた。
また明日は雪になるかもしれない…。
そんな予感を感じていた。
-つづく-
あとがき
この回は、もともと「冬の挿話」のひとつとして書くつもりでした。
が、前後の流れの関係で、やはり長編の中で書くのがいいかと判断しました。
いかがでしょうか?
あのチュンサンとユジンのFirst Kissのシーンを、違う形で描いてみました。
韓国では、バレンタインチョコはバスケットに詰めて贈るそうです。
値段もずいぶんするらしいですよ。
「義理チョコ」や「友情チョコ」の余裕はないみたいです。
チェリンとチンスクの友情も、ちゃんと伝わったでしょうか。
チェリンとサンヒョクの「友情」は、この後どうなるのでしょう…。
もう出来上がっているストーリーを思い浮かべながら、にやにやしたりウルウルしたりしています。
冬のコンチェルト 第7話 「暗い予感」
校庭を吹き抜ける木枯らしが、カラカラと音をたてながら枯葉を踊らせていた。
その中を、ヒジンは急ぎ足で歩いていた。
放課後の自習も今日は休みをとって、帰宅の途についていた。
「おぉ~い! チョン・ヒジ~ン!!」
後ろの方で自分を呼ぶ声に、ヒジンは振り返った。
駆けながら彼女を呼んでいるのは、同じ放送部のチョ・ヨンスだった。
彼は、息を切らせてヒジンに追いつくと言った。
「チョン・ヒジン、 明日の放送部の『卒業を祝う会』はどうするんだ?」
(…あ、そうだった…。)
ヒジンは申し訳なさそうに答えた。
「…ごめんね…。私… 明日は出られないわ…。みんなに謝っておいてくれない?」
「…? 何か用事でも?」
「ええ…。ちょっと…。 私… ソウルに行かなきゃいけないの…。」
「…ソウル? …二次試験か何かかい?」
「…ん…。 …秘密!」
「秘密? …ちぇっ! 秘密の多いやつだな…。
この間も、あちこち怪我だらけの恰好で、みんなに心配させやがったくせに…。
…まぁ、仕方ない。 俺からみんなに言っておくよ。
…で…いつ帰るんだ…?」
「…う~ん… 2,3日は向こうにいるわ。
その後は… やっぱり秘密! …なんで?」
ヒジンの言葉にヨンスはもじもじしながら答えた。
「…あ… いや… 帰ってきたら… どこかで… 何か食事でも…と思って…。」
「…?」
「…あ、勘違いするなよ。みんなをもう一度集めて『卒業を祝う会』のやり直しでもやってやろうかって…。
お前も、俺たち放送部の仲間なんだからな。」
ヒジンは笑顔で答えた。
「…ありがとう。うれしいわ。
じゃあ、みんなにもよろしくね。」
そう言い残して駆けだしたヒジンの後ろ姿を、ヨンスはじっと見送っていた。
妙に彼女が遠くなっていくような気がしていた。
*
朝一番の列車でソウルの街に着いたヒジンは、サンヒョクの携帯に連絡した。
「もしもし…。」
いつものように、優しい声が聞こえてきた。
「サンヒョク兄さん? …ヒジンです。
今、ソウルに着きました。」
「ああ、ヒジン。 お疲れ様。
元気だったかい?」
「ええ、おかげさまで。
お兄さんは、もう大邱に行ってるの? …ああ、そう…。
私はこれから、パク先輩の家に行きます。
午後はちょっと用事があるのであちこち回ります。
明後日…朝一番で大邱に向かうつもりです。
はい…、わかりました…、はい、ではその時…、また…。」
ヒジンは携帯を切ると、その『キム・サンヒョク』という文字が消えるまでじっと見つめていた。
なんだか、心が晴れやかになるのを感じていた。
明るい陽射しが、ゆっくりとヒジンの顔を照らし始めていた。
パク先輩の家に着くと、一緒に近くのカフェで昼食をとった。
パクは相変わらず派手な服装だった。
ヒジンは自分の地味な服装を少し気にしながら、窓際の席に彼女と向かい合って座った。
「…ヒジン。あなた、もう大学の試験は終わってるんでしょう?
なのに、なんでまたソウルに出てきたの?
アルバイトは、もうこりごりだって、この間のメールで送ってきたのに…。」
パク先輩は、ヒジンの顔を探るように見ていた。
「…すいません…。いつもお世話になっちゃって…。
…実は、明後日は大邱の方に行くんです。
ですから、今日と明日泊めていただきたくて…。」
「大邱? 遠いわね…。…大邱に何か用事でも?」
ヒジンは少し迷いながら答えた。
「…大邱で、明後日クラシック・コンサートがあるんです。
親戚のお兄さんが、その関係のお仕事で… チケットも用意してくれているので…。」
「親戚のお兄さん? あなたの? 春川から大邱まで?
…なんだか怪しいな…。
チョン・ヒジン! 誰よ、その『親戚のお兄さん』って!
嘘なんでしょ? え?」
ヒジンは真っ赤になって弁解した。
「…本当です…。本当なんです…。
嘘なんかじゃないです…。」
酔漢にからまれた時、『兄です』と言ったサンヒョクの言葉が思い出された。
『姉の元婚約者』とは、この先輩には言えなかった。
ヒジンの様子を見ながら、パクもそれ以上は追求しなかった。
そのかわり、いつか自分にも会わせてよ、と笑って言った。
ヒジンは、そんな日が来るといいな…と、かすかに胸をときめかせた。
*
2月18日の朝。
サンヒョクは、大邱のコンサート会場で、録音の最終チェックを行っていた。
大邱の放送局員も何人か応援に来ていたので、彼らとの打ち合わせで早朝から走り回っていた。
会場は、地下鉄の中央路駅からすぐ近くのところで、放送局とも近かった。
機材の運搬や、楽器の搬入も計画通りに進んでいた。
「キムPD!もうだいたい準備はOKかい?」
ソウルから一緒に来ているユ先輩が声をかけた。
「ええ、大丈夫です。あとは楽団の方達の到着を待つだけですよ。
リハーサルは2時からでしたよね?」
「ああ、そうだよ。昼飯はしっかり食べておけよ。夜は遅くなるかもしれないから…。
あ、そうだ、…頼まれてた今夜のチケット… ほら、これだよ。」
ユ先輩が、一枚のチケットをサンヒョクに手渡した。
「ああ、すいません…。 先輩、恩に着ます!」
「なんだよ…こいつ…。にやにやしやがって…。
でも、なんでチケットが必要なんだ? 誰か来るのか?」
サンヒョクは、少しはにかむように言った。
「ええ。ちょっと知り合いが来るんです…。
おかげで、コンサートも聴いてもらえます。
先輩、ありがとうございます。」
サンヒョクは、時計をちらりと見て
(今頃ヒジンは、こっちに向かっているのかな…)
そう考えながら、スタッフ・ルームに入っていった。
*
ヒジンからのメールが届いた。
『ついさっき大邱に着いたので、これから地下鉄に乗り換えてそちらに向かいます』
そう書いてあった。
サンヒョクは、時計を見た。
10時前にはこちらに着くだろう…。
ヒジンが来たら、一緒に昼食をとろうと思っていた。
コンサートのチケットもその時渡せばいいと考えていた。
そろそろ10時になるかなという頃、サンヒョクは会場のロビーに降りていった。
(……?)
なにやら表通りが騒がしい。
やたらと人々が走っている。
どこからかサイレンの音も聞こえてきた。
(何かあったんだろうか…?)
表通りに出ようとしたサンヒョクの後ろから、ユ先輩が大声で呼び止めた。
「キムPD!大変だ!! 中央路駅で火災発生だって!
なんだかすごいことになってるらしいぞ!」
二人で通りに出てみると、中央路駅の方角から煙がどんどん上がっているのが見えた。
「おい、ラジオを聞こうぜ!」
ロビーに戻ると、TVの前に人々が集まって口々に騒いでいた。
サンヒョクたちも、その映像を見た。
『…現在、大邱の中央路駅では、電車の火災により大混乱を起こしております…』
アナウンサーの絶叫が響いていた。
地下鉄構内での火災で、パニック状態になっているらしい。
サンヒョクは、はっと気が付いた。
(…ヒジン!!)
急いで、携帯を見た。
『留守電あり』の表示…。
打ち合わせのために、マナーモードに設定したままだった。
サンヒョクは、その留守電を聞いた。
「…お兄ちゃん! 助けて!! 電車が… 燃えてる!!! …あ! お兄… … …」
そのまま、切れていた。
(ヒジン!!!)
サンヒョクは、ロビーを飛び出そうとした。
それをユ先輩が、呼び止めた。
「キムPD!どこに行くんだ!?」
「先輩! 駅に! 駅に、知り合いが来てるんです!
僕… 助けに行かなくちゃ!
あとは頼みます!!」
*
中央路駅のそばに向かったサンヒョクは野次馬の群れに行く手を阻まれた。
すでに消防車などが多数止まっていて、近づけるものではなかった。
あちこちから悲鳴や苦痛を訴えるうめき声が聞こえてきた。
(いったい… どうして…)
途中でヒジンの携帯にもかけてみたが、全く応答がなかった。
サンヒョクは呆然としたまま、人々の喧噪を眺めていたが、仕方なくコンサート会場に戻ることにした。
何か放送局で情報を得てるかもしれない…。
そう思い直して、サンヒョクは夢中で駆けだした。
会場の方ではユ先輩が、ソウルの放送局との連絡に追われていた。
「あ! キムPD! 戻ったのか!
おい、今夜のコンサートは中止だ!
楽団員のメンバーも、地下鉄でこっちに向かってたらしいが、連絡が取れないらしい。
ソウルからは、何かレポートを送れ、だと!
何を言ってるんだか!
こんなときに、落ち着いてられるかってんだ!」
ユ先輩も、興奮気味であった。
時間とともに、TVを通じて事故の詳細が伝わってきた。
原因は、どうやら放火らしいこと。
電車の乗客の多くが被害にあっていること。
すでに何名かの被害者が、市内の病院に運ばれていることなどが伝えられていた。
「先輩…。 ソウルの本社にはいろいろ情報が届いてますよね…?」
サンヒョクの形相に驚きながら、ユ先輩はうなずいた。
「すいませんが、その中に『チョン・ヒジン』という18歳の娘のことが入っていないか…
先輩のコネで、なんとか聞いてもらえませんか?」
「チョン・ヒジン… あ、ユジンさんの妹さんか?
ああ!わかったよ。 すぐ連絡してみる。もし何かわかったらこっちに知らせるように言っておくよ。」
「頼みます!先輩!」
そう言って、サンヒョクは再びTVの映像に見入った。
暗い予感が、胸に広がっていた…。
-つづく-
poppo
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