
「海」
今思い返しても、なぜそんな行動をとったのかわからない…。
「チョン・ユジン…。 借りを返してくれるか?」
僕は、ユジンを学校から連れ出した。
それも、わざわざあのサンヒョクに見せつけるようにして…。
なんて嫌な男だったんだろう…。
サンヒョクに対していつも敵意を持っていた高校生の僕…
それがなぜなのか… 僕は、いまだに不思議に思っている。
ユジンのことで嫉妬していたのか…
それは違うような気がする。
たとえユジンがいなくても…
僕は、サンヒョクを嫌っていた。
そう思えるのは… なぜなんだろう…。
ユジンと二人でバスに乗った。
行き先は決めていなかった。
ただ… 何かから逃げ出したくなっていた。
「どこへ行くの?」
ユジンの問いに、僕は
「…遠いところ…」
そう答えた。
ユジンは噴き出した。
「遠いところって… 海の果てにでも行こうっていうの?」
「そうだな…。 船に乗って… ずぅっと…遠くまで…」
僕は、できるものなら本当にそうしたいと思い始めていた。
ユジンは呆れたように
「この町に海なんてないわよ。
あなた、知ってる?」
その彼女の顔を見ているうちに、ふいに行き先を思いついた。
「ユジン。船に乗りに行こうか?」
「え? うそ…」
疑うような表情のユジンに、僕は言った。
「このバス… 船着き場を通るみたいだよ。」
「……!」
ユジンは目を丸くした。
*
バスの中では、いつもの最後部席に座った。
ユジンが窓を開けた。
風が彼女の長い髪を吹き過ぎてゆく…
その髪の香りが僕の鼻先をくすぐった。
初めて… 感じる… 甘酸っぱい気持ち…
『初恋』… 僕はそれを意識して、ひそかに赤くなった。
ユジンは、破れたシートに湿布を貼った。
それは、まるで何かを捨て去るように僕には見えた。
僕は、同じように頬の絆創膏を剥がして貼った。
僕たちは… 同じ仲間… そんな気持ちだった。
二人でバスを降りた。
そこは南怡島への入り口。
「船って… この湖を渡るのね…。
海に行くのかと思って、ドキドキしたわ。」
南怡島への桟橋を歩きながら、ユジンがつぶやいた。
「…海に… 行きたかったのか…?」
僕が尋ねると、ユジンは首を振った。
「ううん。 海は… 遠すぎるでしょう?
そんな遠くに行ったら… きっと帰りたくなるわよ…」
「海に行ったこと、あるのかい?」
「ええ。小さい頃に一度だけ…。
パパやママと一緒にね…。
あ、その時にね… … …」
僕にはない… 楽しそうな父親との思い出を、ユジンは話してくれた。
なぜか、うらやましいとは思わなかった。
むしろ、思い出を話す彼女が、哀しく見えた。
亡くなったお父さんは、どんな人だったのだろう…。
南怡島に渡った僕たちは、時間を忘れて歩きまわった。
途中、二人で自転車にも乗った。
美しい夕日も一緒に眺めた。
彼女と話しながら、僕の心は次第に温かくなっていった。
日暮れになり、あわてて僕たちは帰りの船に跳び乗った。
町に帰るバスの中で、僕はユジンに言った。
「…いつか… 海にも行こうか…」
(君と…一緒に…)
ユジンは少し居眠りをしていたのか
「…ん? どこに?」
あくびをこらえている顔が…
かわいいと思った。
「…うん… きっと連れていくよ…」
*
それから10年が経っていた。
僕たちは、遠く離れ… そして、また出会った。
運命と言うには長すぎた時間…。
僕たちは、ずっと… 見えない糸で結ばれていたのだろう。
ユジンはあの日のことを忘れずにいた。
僕も… ようやく思い出せるようになっていた。
事故の後、時折浮かんでくる記憶の数々…
記憶には… 覚えておきたいことと… 忘れたいことがある…
僕は、それをまざまざと感じている。
あの日の湖でのことだけでなく、初雪の日のことも僕は思い出していた。
約束通り… 湖にやってきた彼女…
誰もいない湖で、僕たちは子犬のようにじゃれあった。
雪だるまを二つ作ったことも思い出した。
そして… 初めてのKISS…
ユジンには、それを思い出したとは言えなかった。
それは… 今となっては許されない過ち…
僕は、父の名を知ってしまった。
まさか… ユジンと… 同じ…
僕たちは絶対に一緒になれない…
母さんはユジンに話すと言う。
二人が別れないのなら、そうすると僕を責めた。
僕は、それに従うしかなかった。
ユジンを… これ以上苦しめるわけにはいかない…。
全てを諦めるしかなかった。
僕は、夜更けにユジンを呼び出した。
アパートの前で、僕は久しぶりに愛しい人の顔を見た。
その瞳はすでに涙で濡れていた。
「どんなに心配したと思ってるの!」
真っ赤に泣きはらしたその顔…
僕の胸は張り裂けそうになった。
けれど、僕は泣くわけにはいかない…
精一杯の言い訳をして、僕は彼女の涙を指でぬぐった。
どうして… この人に真実を話せるだろう…
そんなことは… できることではない…
僕の胸に身体を寄せてきたユジン…
誰よりも… 誰よりも…
愛しい人…
10年前のあの日から… ずっと…
僕は、この人を愛してきたのだ…
けれど… 僕は、決めなければいけない…
歯をくいしばって僕は彼女の身体を離した。
そして、言った。
「今から… 海を見に行かないか…?」
それは、あの日の約束…
ひそかに誓った夢…
居眠りしていた彼女は聞いていなかったかもしれない。
そうだとしても、僕はその約束をかなえたい…
これが最後になるのなら…
彼女はじっと僕の目を見て、何も言わなかった。
*
深夜のハイウェイを走りながら、僕はユジンの横顔を見た。
彼女は黙ったまま窓の外を見ている。
時々流れるライトに映るその横顔は、美しかった。
「眠ってもいいんだよ…」
僕が言うと、彼女はようやく笑って答えた。
「…大丈夫。
…あなたと一緒に… 夜明けを見たいの…」
「………。」
僕は、アクセルを踏み込んだ。
その願いをかなえるために。
夜明け前に三陟の海岸に着いた。
空はまだ暗く、風は冷たい。
車を降りて、僕たちは波打ち際に立った。
やがてゆっくりと水平線が白んできた。
「…海には初めてきたね…」
僕がつぶやくと
「…今まで、来たことがなかったの?」
そうたずねる彼女の顔が、たまらなく愛しい…。
「いや… 君と…一緒に来たのは初めてだってこと…。
だから… 僕たちにはこれが『最初の海』だ。」
ユジンはうれしそうに言った。
「そうね…。私たちの…『最初の海』…」
(…そして… 『最後の海』…)
僕は彼女の横顔を見つめながら、ここで別れることを決めた。
ユジンは朝焼けの光を眺めている。
何も疑わずに、夜が明けるのを信じているのだろう。
苦しくて、僕は背中を向けた。
北の空にはもうポラリスはない。
浜辺に残った僕たちの足跡は、波に洗われて、消えていった。
-了-
あとがき
これは元々『冬の挿話 74 -残照-』と同じ原稿から書き出したもの。
テーマを「最初の海」に変えたので全く別の作品になってしまいました。
チュンサンはなぜ「海」を別れの地に選んだのか…。
ドラマ本編では語られていません。
不可能の家での再会への布石でもなさそうです。
ですから、ちょっとだけ意味づけをしてみた作品です。
雪の中とは違い、暖かな光の中での二人の別れ…。
『冬のソナタ 第18話』は哀しい回ですね。
明るい映像なのに、本当に幸せそうなのに、哀し過ぎて胸が痛みます。