「鬼哭」
僕は、アメリカに帰ることを決めた。
このままここにいることは、ユジンさんを苦しめ続けることになる…。
サンヒョクさんに言われた通りだと気が付いた。
ユジンさんは、今もカン・ジュンサンを愛している。
たとえ彼が亡くなったのだとしても、カン・ジュンサンの姿はユジンさんの心の中から消えやしないだろう。
それを知った上で、サンヒョクさんはユジンさんと生きていこうとしている…。
彼の言葉を聞くうちにそれがわかった。
サンヒョクさんは、こうも言っていた。
カン・ジュンサンはユジンさんの心をおもちゃにしたのだと…。
ユジンさんはカン・ジュンサンを愛していたが、チュンサンはそうではなかったのだと。
僕は、その事実に、ユジンさんとサンヒョクさんの二人の哀れさを思い、言葉を失った。
*
…しかし
それは違っていた…。
春川の家であのカセットテープを聞いた僕は、涙が止まらなかった。
『ユジナー…。 …ユジナー…。』
何度もその名を呼び続けるカン・ジュンサンの声に、偽りは感じられなかった。
ただひたすらに愛しい人に呼びかける少年の、純粋な心が僕にははっきりとわかったのだ。
そして…
その少年とは僕… この僕自身であること…。
カン・ジュンサンという少年の記憶を全く失った、イ・ミニョンという不可思議な男…。
チュンサンとは別人の、罪深い男なのだと思い知らされた。
チュンサンを思い出せない以上、僕はやはりチュンサンではない。
ただ、チュンサンに似た顔のイ・ミニョンでしかない。
ユジンさんを苦しめるだけの… そんな男…。
無力感が、心に広がっていくだけ…。
ならば、ここを離れ、ユジンさんとの記憶を捨てて帰るのが一番良いのだと思う。
ホテルの部屋で一人、ソウルの街の灯を眺めながら、僕はそう決心した。
*
アメリカに帰る日。
僕は、ポラリス社の事務所に立ち寄った。
ユジンさんに、最後のあいさつをしたい…。
そう思う気持ちと、会ったらこの決心が揺らいでしまうかもしれない…という二つの気持ちがあった。
僕の心配をよそに、ユジンさんは不在だった。
少しだけがっかりしながらも、僕はまた少しだけほっとしてもいた。
お世話になったチョンアさんに、ユジンさんに渡してほしいとあの品を託した。
「…? これは何です?」
いぶかしむチョンアさんに、僕は言った。
「お祝いと…ご挨拶みたいなものです。」
「それなら、来週末にでも直接ユジンに手渡したらいかがです?
春川の実家に行ってるだけですから、そんなに長くはならないと思いますけど。」
「いえ、あなたから渡していただければ結構です。
実は… アメリカに帰ることになったものですから…」
目を丸くしてチョンアさんは言った。
「え? アメリカに? …出張ですか?」
「いえ、そうではありません。
…少し疲れたので… 向こうに戻ってゆっくり休もうと思って…。」
僕の言葉にチョンアさんは目をしばたたかせていた。
「じゃぁ… しばらく戻ってこないのですね…。」
「……。 たぶん… もう戻ることはないでしょうね…。」
「…! それじゃ、ユジンには会わずに?」
「…はい… いえ… ユジンさんには先日お会いした時… お別れを言いましたから…。」
「じゃぁ、ユジンにはアメリカに帰ることも話したんですね?
…あの子… そんなこと全然言ってなかったわ…
で、いつ帰られるんです?」
たくさんのファイルが載ったユジンさんのデスクの上を眺めながら、僕は答えた。
「…今日の 飛行機で帰ります。
…え? ああ… 12時の飛行機です。
はい…。 これからマルシアンに寄って、そのまま空港に向かいます。」
そう言えば、このチョンアさんには先輩もお世話になったな…。
「では、これで失礼します。それを… ユジンさんによろしく…。」
その品… 一通の封筒には、あの『初めて…』のCDを入れておいた。
カン・ジュンサンが弾いた『初めて…』は、僕の心にも美しく傷跡を残したようだ。
その旋律はかすかに指でたどることはできるものの、すぐに雪の上の足跡のように埋もれていってしまう…。
チュンサンは… やはり、もうこの世にはいない人間なのだ。
せめて…
カン・ジュンサンと同じ気持ちで… 同じくらいの愛を込めて…
僕は、この曲を彼女に贈りたいと思った。
カン・ジュンサンのように、自ら弾いてテープには録音できないけれど…
僕が… 生まれて“初めて”愛した人に… 贈りたい…。
ユジンさん…
お幸せに…
… イ・ミニョン
-了-
あとがき
これもボツ原稿の中から拾いだしてみました。。
『二度目の事故』の中のワンシーン「CDをもらったユジン」の直前を書いたものです。
ポラリスの事務所を訪ねたミニョンとチョンアさんの会話がメイン。
タイトルも本当なら「帰国」でいいでしょうね。挿話48と被ったのでちょっとダジャレで。
ミニョンがアメリカへの帰国を決心したことを書いた作品ですが、どうもわかりにくいですね。
やはり本編のドラマを見れば充分で、あれこれ書くのはかえって余計な雑音なのかもしれません。
コメント一覧 (5)
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- 2019年04月21日 22:31
- > 子 狸さん
あのカセットはミニョンも大事そうにバッグに入れていましたね。
しかし名札やメモは置いたまま。
以降のストーリーの小道具なので残したんでしょうが、僕ならきっと持っていきますね。
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- 2019年04月21日 22:37
- 内緒さん、お便りありがとうございます。
お身体にだけは気をつけてくださいね。
スマホの件は、やはり慣れでしょうね。大丈夫。ゆっくり覚えていけばいいんです。
僕は仕事の都合上PCを使うことの方が多いです。けれど、スマホに冬ソナが全話入っているのは昔から変わっていません。
-
- 2019年04月21日 23:33
- 私も、poppoさんとおなじく、きっと思い出に持ち帰ったと思います。
メモも名札も…あそこに置いておいても、誰の目にも触れない…
価値を見出せるのは、ミニョンのみでしょうから。
ミニョンは…ポラリスでチョンアさんに別れの挨拶をしたとき、
表情ははともかく、心の中で慟哭していたはず。
いいタイトルだと思います。
-
- 2019年04月22日 18:32
- 「鬼哭」…ちょっとおどろおどろしい印象の言葉ですから、使い方としては意味は合っていても、正直どうかなぁと思っています。
あの名札はともかく「ユジンの手紙」を残していくのはどうでしょう?
あれは本当に大切な記念品だと思うのですが。
だからこそ後の展開で使ったんでしょう。仕方ないですね。
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poppo
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ありがとうございます。
没原稿にならなくて、本当に良かった\(^o^)/
サンヒョクからいろいろと責められ、
チュンサンの家で聴いたカセットテープの…
彼が奏でる「初めて」の旋律と初々しい音声…
小さく折りたたんだユジンからもらったメモ…
どれもが、彼の心を深く傷つけました。
自分が何ひとつ覚えていないことは、
ミニョンには耐えられないことだったと思います。