「追慕」
ノックしたドアが開くと、キム・ジヌ教授の笑顔が僕を迎えてくれた。
「やあ、早かったな。
待っていたよ。
さあ、入って…。
今、コーヒーも沸かしているところだから…。」
教授の温かな言葉が、僕の胸にしみこんでくる…。
また… 来てしまった…。
つい一昨日来たばかりなのに…。
「この間の5次方程式に対する君のアプローチは、とても面白かったよ。
解の公式が存在しないのは、すでに証明されてはいるのだが…
ああいう考え方ができるなら、4次方程式についても、もう一度研究の余地がありそうだよ。
君なら、『フェルマーの方法』以外にも発見できるかもしれないぞ…。」
教授は、熱いコーヒーを入れながら、そう言った。
「しかし… 君には驚かせられてばかりだよ。
前にも話したが、もう20年… たくさんの学生を見てきたが、君のような子は初めてだ。
本当に、数学が好きなんだな…。」
教授の言葉に、僕は首を振った。
「…別に… 数学が好きだというわけではありません…。」
「…ほう…!
それならなおさらだ。
君ともっと数学について話したくなるよ。」
「……?
…どうしてです…?」
僕は教授に聞き返した。
「ああ… それはね…
この私と同じだから…さ。
…え? …そうだよ。
この私も、昔から数学が好きだったわけではないのだよ。
おかしいだろう?
それなのに、こうして数学者として若い人たちに教えているのは…。
君もそうなら、私と同じ仲間だ。
もしかしたら、同じ血が流れているのかもしれないな。」
「………。」
教授は、僕の表情に何も見つけてはくれなかった。
「では… 教授は何が好きだったんですか…?」
僕は尋ねた。
「…うん? …好きなものかい?
…そうだな…
…まあ… ただの憧れだったのだが…
ヴァイオリン奏者になりたかったよ。
いや、全く音楽には縁がなかったんだがね。
ああいう美しい世界で生きられたら…とね…。
…君は、音楽は好きかい?」
教授の問いに、僕はまた首を振った。
「いいえ…。
興味がありません…。」
音楽で生きる者が、美しい世界にいるとは… 僕には思えなかった。
「それは… 残念なことだな…。
美しいものに触れることは、君みたいな年頃には必要なことだよ。
機会があれば聴いてみるといい。
君だって、モーツァルトくらいは知っているだろう?」
「…はい…。」
僕は、うつむいたまま答えた。
「…まあ、私もそんな偉そうには言えないがな…。
ああ… 息子は… サンヒョクは、結構クラシック音楽に詳しいのだよ。
学校では放送部に入っているそうだ。
なんでも、将来はそういう世界で働きたいらしいよ。
…どうも、私にはあまり似ていないみたいだな…。」
教授はそう言って、笑った。
「とにかく、君には期待してるよ。
カン・ジュンサンくん!」
教授の笑顔は、コーヒーの湯気の向こうで、遠く揺らめいていた。
*
教授の研究室を後に、僕は家路についた。
ひとり歩く夜の道…。
風が冷たく背中を吹き抜けていく…。
今日も… あの人は、僕のことに気づかなかった。
もう… 忘れられているのだろうか…。
僕は、寂しさを感じた。
父なら… 息子を見つけてほしい…。
悔しかった。
だけど… 楽しかった…。
父かもしれない…教授と過ごす時間は、僕の心をいつも温めてくれる。
母の弾くモーツァルトなど… 僕には虚しいだけ…。
「…お父さん…」
今夜も言えなかった言葉…
暗い空を見上げて、僕は小さくつぶやいた。
-了-
あとがき
明日は父の日。
みなさんのお父様にとって、良き日でありますように…。
みなさんのお父様にとって、良き日でありますように…。
コメント一覧 (12)
-
- 2007年06月16日 21:11
- Poppoさん、こんばんは。お久しぶりです。明日は父の日でした。きょうは、すっかり忘れてました。思い出させてくださってありがとうございます。悔しいけど、楽しい時間なんですね。チュンサンにとっては心温まる時間ですね。13年後、「お父さん」と呼べる日がくるんでしょうか。
-
- 2007年06月16日 21:53
- ルンルンさん、お久しぶりです。
親孝行のアイデアでも沸きましたか?
僕はもう父を亡くしてますから…
そうですね… 父の好きだった阪神の応援でもしようかな。
-
- 2007年06月17日 10:00
- あの部屋で本当にこんな会話が交わされたのだろうと思います。
>悔しかった。だけど… 楽しかった…。
チュンサンの複雑な気持ちが良く表れていると思います。
サンヒョクが見て嫉妬するほど、仲がよいように見えた二人。
父の日にふさわしい作品を、ありがとうございます。
-
- 2007年06月17日 16:07
- 迷う気持ちをユジンの言葉に勇気づけられ 父を訪ねるチュンサン、話をするだけで嬉しい自分と、気づいてもらえないもどかしさ、17歳のチュンサンには重かったことでしょう。息子が小さいとき父は息子がすることを見ながら先に進み時には立ち止まって側まで来るのを待ち。今は29日32歳になる息子が父を見守っています。チュンサンも13年後教授の父と穏やかな時間が持てていると思います。親の事情で子供が辛い想いをする事だけは避けなくてはいけないですね。
-
- 2007年06月17日 17:51
- 私も この教授室でこんな会話が交わされていたのだと思います。
会いたいのに理由なんてありませんよね。
父とは気付いてもらえないもどかしさをかかえながらも またここへ足を運んでしまう…。
「もしかして 同じ血が流れているのかも…。」の言葉にドキっとしてしまいました。
-
- 2007年06月17日 20:59
- 子狸さん、ありがとうございます。
父の日にふさわしいのかなぁ…。
この時、もしチヌがチュンサンのことに気づいていたら…。
チヌは何度も後悔の思いを持ったでしょうね…。
父親としてのチヌの心情は、ドラマでは時間が足りなかったせいか、あまり描かれてはいませんでした。
空白の3年の間も、どんな日々だったのか…。
『大地の子』のようなドラマがあったら素敵だったのに…なんて、欲張りでしょうか。
-
- 2007年06月17日 21:04
- カンちゃんさん、高校時代のチュンサンとユジンは、互いの父親について語り合っていますね。
父を失ったユジンと父を知らないチュンサン…。
ふたりの心が近づいていくのも、その語らいの中にありました。
父の愛を知り、父を見守ることができるようになった子…。
それが人間の成長ということなのでしょうか。
ありがとうございます。
-
- 2007年06月17日 21:10
- seikoさん、父の日はいかがお過ごしでしたか?
午後、横浜駅に買い物に行ってきました。
「お父さん、ありがとう」と書かれた広告などをたくさん目にしました。
昔は、こんな時期には「理想の父親」アンケートの発表がありましたね。
宇津井健さんだったり…最近では、星野仙一さんだったり…。
Yahoo!のトップ記事にも出てないようで、なんだか残念。
僕は、父親の血というものを、よく感じます。
やはり、あるんだなぁ…と。
お子さんは、どうでしょう?
-
- 2007年06月17日 22:14
- Poppoさん そんな時とはどんな時に感じますか?
私も 感じますね。
子供も主人そっくりなところたくさんありますね。
血は争えない…。やはりそうなんでしょうね。
父の日の今日は 神戸の息子から主人に自分で作った「肉じゃが」の画像がメールで送られてきました。
コメントも何もなしで…。
それでも主人は喜んでいましたよ。
「これだけでも 俺が喜ぶのあいつは知ってるんだな」って言ってました。
久しぶりに家族そろって夕ご飯を食べました。
-
- 2007年06月17日 22:26
- 素敵なエピソード…。
ありがとうございます。
おかげでこちらまで幸せのお裾分けをいただいた気分です。
僕が父を感じるのは…
女性と話す時かな…。
普段は男たちの中で馬鹿話ばかりしている父が…
まるで別人のように話しているのを聞いた時があります。
父親ってなんなんだろう…。
そう思ったら、『挿話59』が懐かしくなって…
ついでにちょこちょこ書き直してしまいました。
-
- 2007年07月13日 03:01
- >『大地の子』のようなドラマがあったら素敵だったのに・・・
このドラマ、本当に泣けました。上川隆也さん、演技上手いです。
最後に「ぼくは大地の子です」ってセリフがありましたね。
重いですね。
父の日は私にとって遠い日になってしまいました。
-
- 2007年07月13日 22:43
- うさこさん、ありがとうございます。
『大地の子』も泣けましたね…。
冬ソナほどではありませんでしたが、何度も泣きました。
原作も持っていますが、あの脚本は素晴らしいです。
ビデオはしっかり永久保存版として大切に保管してます。