「Album」





「イ・ミニョン理事、会長がお呼びです。」


デスクの上の内線電話の声に、僕は受話器を取った。


「はい、ミニョンです。

 何かご用ですか、会長。」


父の声が受話器の向こうから聞こえてきた。


「ああ… ちょっとこっちに来てくれないか。

 お前に渡さねばいけないものがあったんだ。」


「僕に?

 なんでしょう?」


「うん… 仕事の関係ではないのだが…

 すぐに来れるか?」

父の声は、心なしか重く沈んでいる。


「はい。

 すぐ伺います。」


…なんだろう…。


僕は、オフィスを出ると、上の階の会長室に向かった。



          *



「手術は… 来週になったそうだな…。

 体調は大丈夫なのか?」


会長室に入ると、父はそう尋ねた。


「……。

 ええ… そう決まりました。

 なぜそれを?」

僕は、まだそのことを誰にも話してはいなかった。


「病院から連絡があったよ。

 あの病院の院長は、私とは古い付き合いでね。


 お前… 何も話してくれないからな…。」

父は、寂しそうに言った。


「すいません… 父さん。

 後で話そうと思っていたのです。

 母さんにも…。

 あまり心配をかけたくなかったものですから…。」

僕が答えると、父は少し微笑んで言った。


「大事なことは、親にはちゃんと話してほしいな…。

 私は…

 今でもお前の父親のつもりでいるのだがな…。」


「…父さん…。」

僕は、言葉に詰まった。


ニューヨークに戻ってから、僕は以前のように父と話すことがなくなっていた。


ソウルで… 自分の過去をすべて知ってしまった僕…。

この父が…  本当の父でなかったことも…。

なのに… この人は…。


「…お前の気持ちは、わからぬこともない…。

 すまなかったな…。

 騙されていたような気がするんだろう?


 何もかも… この私が悪いのだ。

 すまない…   ミニョン…。」


「………。」

僕は、黙ってうつむいた。

父も… 苦しいのだ…。


僕は、顔をあげ、笑顔を作った。

「いいえ、父さん。

 僕は、父さんには感謝しています。

 ずっと… 今も、父さんを実の父だと思っています。

 それだけは信じてください…。」


「…ミニョン…。」

父の目に、うっすらと涙がにじんでいる…。


僕はあわてて言った。

「ところで、僕に何か渡す物とは…?」


「ああ、そうだった…。

 ちょっと待っててくれ…。」

そう言うと、父は壁際の大金庫の鍵を開け始めた。


(……?)

僕は、その父の様子を見ていた。


「…これだよ。

 お前にこれを… 渡さねば、と思ってな…。」


(………?)

僕は、手渡されたその大きな箱を開けた。

中には…  古いアルバムらしきものが一冊…。


「これは…?」

僕が尋ねると、父は窓の方に背中を向けて言った。


「お前のアルバムだよ…。

 ああ…そうだ。


 お前が生まれた頃からの…。


 ずっと私が預かっていたのだ。


 もう… お前に返してやらねばいけないと思ったのでな…。」


僕は、そのアルバムの表紙を見た。

そこには見慣れた母の美しい文字で


  『 姜 俊 相 』


そう書かれていた。


  『1973年2月18日誕生』


僕の… アルバム…。



「…これを… 父さんがなぜ…?」

僕は、父の背中に尋ねた。


父は、静かに言った。

「ミヒの手元に置いておくのは… 辛かろうと思ってな…。

 今日までこの私が持っていたのだよ。

 すまなかったな…


 …チュンサン…。」


父は…

僕を、その名前で呼んだ。

(………。)


僕は、何も言えずに、ただ父の背中に頭を下げて、会長室を出た。



          *



家に戻った僕は、母に帰宅を告げるとすぐに自分の部屋に入った。


母には何も話さなかった。

…話せなかった。


そして、ひとり…そのアルバムを開いた。



懐かしい…景色…。


あの春川の家が、セピア色の光の中に写っていた。


母の腕に抱かれた生まれてすぐの僕…。

母の、小さな…微笑み…。

どこか哀しげに見えながらも、確かに母は微笑んでいた。


ベッドに眠る僕の隣で、ピアノを弾く母の姿…。

その目は、優しく僕の寝顔を見守っている…。


ようやく這い這いができるようになった頃だろうか…。

母が、僕の頬に口づけて笑っている。


僕の記憶にはない…  母の笑顔…。

美しい… 若き日の母…。


お粥に息を吹きかけて冷ましている母…。

どこかの公園で、一緒に腰掛けている僕たち…。

たどたどしい僕の歩みを見守る、母の不安げな眼差し…。

僕のマフラーの襟元を直してくれている、優しげな横顔…。

運動会で走る僕の後ろで、手をたたいて叫んでいる母の喜ぶ顔…。


そこにはいつも、あの母の… 母の心が写っていた。


(…母さん…)



僕は… 胸がいっぱいになった。


僕は…  母に愛されていたのだと…


ただひとり…この僕を…。



やがて、写真の色が変わった。


小学校にあがった僕の顔…。

そこに写っている暗い瞳…。

母の顔にも微笑みは見られなくなっていた。


母の演奏先でのスナップだろうか…。

どこかの観光地らしい…旅先での僕と母。

並んで写ってはいても、別々の方を見ている…。


高学年になるに従って、一緒の写真はなくなっていった…。


あの頃…。


母から笑顔を奪ったのは… この僕なのだ…。

僕は、アルバムの中に、暗い影の国を見つけていた。



中学生の僕は、すでに横顔ばかり…。

誰にも視線を合わせない、頑なな姿が写っていた。

母は… どんな思いで僕を見ていただろう…。



そして最後のスナップ…。


それは『全国数学オリンピアード』の会場でのものだった。

そこで僕は、あのキム教授を知った。


僕の… 本当の父が誰なのか…


それを感じて…


僕は、春川に転校したのだ。




「…母さん…。」

僕は、アルバムを片手に母のいる部屋に入った。


「…チュンサン?

 …なあに?」

母の不思議そうな顔…。


そこには、あの若かった頃の笑顔は見つからない…。


「…これ…  父さんから…

 今日、いただきました…。」

僕は、アルバムを母に見せた。


「………!」

母は、一瞬驚きの色を見せたが、すぐに静かな微笑みを浮かべた。


「…そう…。

 まだ… 残っていたのね…。


 あの人…

 とうとうあなたに…。」


(………?)

母の言葉が、僕には気になった。


「…残っていた…とは?」


母は、うつむき加減に言った。

「…ごめんなさい… チュンサン…。


 それね…  私は、燃やそうとしたのよ…。

 あなたの記憶を… すべて消し去ってしまおうと思ったの…。


 でも…

 あの人は、それを許さなかったわ…。


 そのアルバムだけは…と言って…。


 きっといつか、こんな日が来ることを知っていたのね…。」

母は、自らを嘲るように笑った。

その笑顔が、悲しかった。


「…父さんが…。」 

僕は、父の涙を思い出した。


父は… 


あの父は…  僕を…



ふいに溢れてきた涙…。


僕は、この母とあの父に… 本当に愛されてきたことを知った。


「母さん… ごめんなさい…。」

僕は、母の身体を抱いた。

心から…

心から、この母を愛おしいと思った。


そして、あの父も…。



アルバムには、あの父の姿はどこにも写ってはいなかったが…

父の思いだけは…

溢れるほどの父の思いが…


このアルバムに詰め込まれているのを、僕は感じていた。


                           -了-


あとがき

父の日を前に… またボツ原稿の中から。

このアルバムのことは、すでに書いていました。
『夏のメモランダム 第51話』… 覚えておられるでしょうか…。



 コメント一覧 (12)

    • 1. みやっち
    • 2007年06月06日 15:15
    • アルバム・・・少し悲しいですね。小さい頃のチュンサン、みてみたかったです。3年後ユジンと再会できるんだけど、まだまだ先の見えない頃なので、余計に胸が痛みます。
    • 2. **seiko**
    • 2007年06月06日 15:44
    • イ氏は ミニョン(チュンサン)を本当の息子として愛していた…。このことは 以前Poppoさんが書いてくださった挿話で憶えています。このアルバムが残っていて本当によかったです。
      すべて 記憶を消し去られてしまったのでは 悲しすぎますよね。
    • 3. retro
    • 2007年06月06日 21:39
    • 涙・・ですが、暖かな涙を感じます。
    • 4. poppo
    • 2007年06月06日 22:34
    • 冬ソナ本編では、こういうミヒの母性はあまり描かれませんでしたよね…。
      それでも、想像をかき立てさせるミヒ役のソン・オクスクさんの演技力は素晴らしいと思います。
    • 5. 冬ソナonlyyou
    • 2007年06月06日 22:50
    • チュンサンは、そしてミニョンは、なんて沢山の人達に愛されて生きてきたのでしょう。ヨングクに「俺達がお前を好きだった事を全部思い出せ!」と涙して貰い、poppoさんの優しさが、継父の愛情となって生まれ出て…。人間が皆なこんなに思い合ったら…、なんておばさんの戯言でしょうか。
    • 6. poppo
    • 2007年06月06日 23:03
    • 冬ソナonlyyouさん…それこそが、「冬ソナ」が僕たちに教えてくれたこと…です。戯れ言にしてはいけない…そう思っています。
    • 7. うさこ
    • 2007年06月07日 02:55
    • 「チュンサン」と呼ぶ継父の心情、深いですね。
      記憶の戻ったチュンサンに対してミニョン時代に出会った人たちはどう呼んでいたのでしょう?
      キム次長も「イ理事?カン理事?」なんて言ってましたね。
      これは人物やドラマへの個々の解釈や思い入れによって変わってくるかな?
      それより、チュンサンが愛されて育ってきたことを知ることができて
      良かった。
      私はチュンサンがなぜミヒを許せるのか、未だに釈然としない思いがあるのです。でも、こういうことがあったなら、救われる気がします。ありがとう。poppoさん。
    • 8. さち
    • 2007年06月07日 14:58
    • よかった本当の子として育てていたんだね
      今度は。お父さんと、お母さんの愛情も書いてください
    • 9. poppo
    • 2007年06月07日 22:27
    • ドラマには全く出てこなかったのに、僕のイ氏に対するイメージはとてもはっきりしています。
      なぜなんだろう…?
      やはりミニョンの性格を背景にしているのかな…。
      チュンサンがミヒを許せる理由はね…
      子供の頃、チュンサンは何度も母の涙を見たのだと思います。
      シングルマザーとして辛い目にあってる姿を見て育ったんだと思います。
      母を憎んでいたのではなく、悔しい思いを抱いていたのだと思います。
    • 10. poppo
    • 2007年06月07日 22:28
    • さちさん、ありがとうございます。
      ボツ原稿の中から、それらしいストーリーを見つけました。
      そのうちアップするかもしれません。
    • 11. 子 狸
    • 2007年06月07日 22:44
    • アルバムが残っていて良かった。…チュンサンの思い出が詰まっている…もちろんそうですが、母であるミヒの思い出もいっぱい詰まっているのですよね。
      私の妹の友人の家が全焼したとき、学生だった妹たち同級生は、廃品回収をして彼女の援助をしました。そして、自分達のアルバムを持ち寄り、彼女が写っている写真を探して、プレゼントしました。一人から一枚ずつでも、40人いれば40枚。洋服や本、家具などはお金を出せば買えますが、写真は無理ですからね。お金のない学生だった妹たちに出来る、精一杯のことでした。
      現在では、デジカメやカラーコピーもあるし、スキャナで読み取ることも出来るのでしょうが…。
    • 12. poppo
    • 2007年06月07日 23:13
    • 子狸さん、素敵なお話、ありがとうございます。
      『岸辺のアルバム』を思い出してしまいました。
      このストーリーの添付画像は、ヨンジュンssiの少年時代の物を貼ろうかと思いましたがやめました。
      見たかった!という方もおられるかもしれませんが、勘弁してくださいね。

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