「5月の風」
5月の風が、汗ばみはじめた肌に心地いい。
街の喧噪が、その風に乗って、この屋上にも届いてくる。
その風に吹かれながら、サンヒョクはヨングクと並んで立っていた。
そういえば、手にしたカップのコーヒーも今は冷たいものの変わっている。
季節は、もう夏に向かっているのだ。
「お前が来るなんて、珍しいな…。」
サンヒョクが笑った。
「何か用事でもあったのか?」
昼休みになる直前に、スタジオのドアを叩いてやってきたヨングクの顔。
いつものように明るい笑顔に心が安まる思いだった。
「別に用事などなかったが… しばらく顔も見てないからな…。
どうしてるかと思ってさ。
ちょうど病院も休みなんだ。」
ヨングクが、笑いながら言った。
「そうか…。
そうだな…。
ここのところ、仕事が忙しかったし…
家にもすぐ帰っていたんだよ。
今夜、久しぶりに飲みに行くか?」
「ああ…いいな。
…それもいいが…
…お前んところ… 大丈夫か?」
ヨングクは、急に真面目な顔になって尋ねた。
「…ん? 俺のところ?」
サンヒョクも顔をあげた。
「ああ… お前の家のことだよ。
…お袋さん…
まだ寝込んでいるのか?」
ヨングクの言葉に、サンヒョクは小さく息をついた。
「…まだ… 寝たり起きたりだ…。
なかなか… すぐには難しいさ…。」
「そうか…。
それは心配だな…。
やはり、相当ショックだったんだろうな…。」
ヨングクも、ため息をついて言った。
チュンサンがチヌの子であったことは、サンヒョクから漏らされていた。
その後のチヨンの様子も、少しは聞いていたのだった。
ヨングクは、サンヒョクの心中を思って、ずっと気にかけていた。
「お前自身は… もう大丈夫なのか?」
ヨングクが言った。
「………。
…ユジンのことか…?
…うん…
…大丈夫さ…。
…もう… 終わったことだよ…。」
サンヒョクは、カップのアイスコーヒーを飲み干した。
「………。
じゃあ… お袋さんの力になってあげられるよな?
いつだったか…
お前が入院した時…
お袋さんは、付きっきりでいたじゃないか。
俺は、あの時のお袋さんを思い出すと、涙が止まらなくなるよ。」
ヨングクの言葉に、サンヒョクはその頃を思い出した。
ユジンとのことで、自暴自棄になっていた頃の自分…。
馬鹿な自分…。
その自分を、母は必死で介抱してくれていた…。
サンヒョクの胸に、また痛みがひろがっていた。
「今度はお前が力になってやる番だよ。
わかるよな?
お袋さんは…
お前のために、スキー場まで行ってユジンに頼んだりもしたんだぜ?
その有り難さを忘れちゃいけないだろう…。」
「…そうだったな…。
…しかし…
今になって思えば、ユジンには悪いことをしたよ…。
母さんにまで来られた日には… 辛かったろうな…。
ああ… お前もユジンに電話してくれたって… チンスクから聞いたよ。
すまなかったな…。」
サンヒョクが答えると、ヨングクは笑っていった。
「そんなこと… 当たり前のことさ。
ユジンか…。
そうだな…
あいつにも、悪いことをしたのかもな…。」
「…あいつが… どんな思いで来たのか…
俺… 今でも恥ずかしくなるよ…。
あいつは、人の命を…本当に大切に思っていたから…。
俺なんかのために…。
………。」
サンヒョクがうつむきがちに言った。
「サンヒョク…。
今だから… 言うけれど…
ユジンをお前の病院に来させたのは、お袋さんでも… ましてや俺なんかでもないんだぜ…。」
「………?」
サンヒョクは、不思議そうにヨングクの顔を見た。
ヨングクは、そのサンヒョクの目を見つめて言った。
「…俺… 見たんだ…。
ユジンが来た晩…
俺とチンスクが帰る時…
あいつの…
チュンサンの車が駐車場から出て行くのをな…。」
「………!」
「…ユジンを連れてきたのは… チュンサン…
いや… あの頃は、イ・ミニョンだったっけ…。
あいつなんだよ…。」
「………。 …そうか…。」
サンヒョクは、そのまま黙ってしまった。
「…サンヒョク…。
お前…
いい『兄』を持ったよな…。
いいお袋さんを持ったよな…。
お前… お前の辛いのもわかるが…
これからは、お前が頑張る番じゃないのか…?
俺も力を貸すから… 頑張っていこうぜ…。
サンヒョク…
お前なら、できるよな?」
サンヒョクは、うなずいた。
「…ありがとう… ヨングク…。
そうだな…
俺が… 頑張らなきゃな…。
俺が…
母さんを元気にしてやらなきゃ…な…。
心配してくれて… ありがとう…。」
そのサンヒョクの言葉に、ヨングクも目をこすりながら笑った。
「なあに…
お前が顔を見せないと、俺も寂しいからさ。
ここんとこ、チンスクやチョンアさんくらいしか顔を出さないもんだから…。
そうそう…
来週は『両親の日』じゃないか。
なにか買ってやるといいぜ。
…早く…
昔のようになると…いいな…。」
「ああ… そうなるように、努力するよ。
じゃあ… 今夜…
あの店で落ち合おうか…。
俺も早めに出るから…。」
「OK!
じゃあ、後でな!」
ヨングクが去った後…
サンヒョクは、ひとり空を見上げた。
『この空が好きだった…』
いつかチュンサンが言い残した言葉を思い出した。
『すべてを元に戻せよ!』
自分が言った言葉も思い出していた。
(…元に戻すのは… 僕次第なんだ…。)
自分のこの手で… 母も… そして父も…
昔のように…
(…頑張ってみるか…)
そう決心したサンヒョクの頬に、明るい光がさしはじめていた。
-了-
あとがき
「母の日」につながるストーリーを探していた中のひとつです。
テーマが絞り切れていないので、ボツにしてあった原稿。
テーマが絞り切れていないので、ボツにしてあった原稿。
サンヒョクに言ってやりたいです。
「いい『友』を持ったよな」と。