「チング」



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「ただいま~!

 チヒョン! パパが帰ったぞ~!!」

玄関のドアを荒々しく開けて、ヨングクが入ってきた。

春も近くなり、吹き込む風はずいぶん暖かくなっていた。


「おかえりなさい。

 早かったわね? まだご飯の支度もできてないのに…。」


うたた寝でもしていたのか、目をこすりながらチンスクが出てきた。


「寝てたのか? チヒョンは?」

ヨングクは、洗面所で手を洗いながら言った。


「奥でまだ寝てるわよ。

 あ、起こさないでよ? もう少し寝ててもらわないと、なんにもできないから…。」

チンスクが言った。


「ちぇっ! わかったよ…。

 せっかくパパのご帰還だというのに…。

 歓迎の挨拶もないんじゃ寂しいもんだな…。」

ヨングクはがっかりした顔で言った。


その夫の顔を見ながらチンスクが言った。

「ヨングク…。

 あのね…

 さっき…

 ユジンから電話があったの…。」


「…ユジンから?

 …なんだって?」

ヨングクは、奥の部屋のドアを覗きかけていたが、振り返って言った。



「…うん…。

 ユジンね… 来月こっちに帰ってくるって…。」


「帰ってくる?

 もう留学も終わりなのか?」


「そうみたい。

 書かなきゃいけないレポートも終わったそうよ。

 来月には帰国するんだって…。

 …どうしよう?」


「どうしよう?

 …何か困るのか?

 あ。

 この家から出ていかなきゃいけないんだっけ?」

ヨングクは、頬を掻きながら言った。


「…顔も洗いなさいよ…。


 …そうじゃないの…。

 この家のことはいいのよ…。」


「じゃあなんだって言うんだよ?

 ユジンが帰ってくるのはいいことじゃないか。

 昔のチング(友達)が帰ってくるんだぜ?

 喜んでいいはずじゃないか。」

ヨングクは不審そうに言った。


「もちろん私もうれしいわよ。

 …ユジンは大切な友達だもの…。」

チンスクが答えた。


「そうさ。

 あいつは俺たちの友達なんだ。

 2年…

 いや、3年になるのか?

 やっと帰ってくるんだから、喜んで迎えてやらなきゃ…。

 …歓迎会でもやってやろうか?」

ヨングクの言葉に、チンスクがため息をついた。


「…それなのよ…。

 私… ユジンのために歓迎会をやってあげたくて…。

 …でも…


 …ねえ…ヨングク…

 みんな来てくれるかしら…?」


「…みんな…って…

 俺たちと、サンヒョクだろ?

 それに、チェリンくらいじゃないか。」


「…もう…!

 鈍感な人ね!


 あの人たち… 来てくれるかどうか…

 あなた、そのくらいわからないの?」

チンスクは呆れた顔で言った。


「ああ… お前、そんなことを心配してるのか…。

 …大丈夫。

 あいつらにとってもユジンは友達なんだ。

 それは何年経っても、何があっても変わらないはずさ。

 そうだろう?」


「それはそうだけど…。

 ただの友達ならそう言えるでしょうけど…

 あの人たちには…。


 ねえ… どうしたらいい?」

チンスクが尋ねた。


「どうしたもないもんだ。

 俺たちが歓迎してやらなきゃ、誰がやるんだ?

 友達だろ?

 昔いざこざがあったからって、そんなことで大事なことを忘れちゃいけないよ。

 ユジンは俺たちの友達…

 大切な仲間なんだよ!」

ヨングクはチンスクの肩を抱きながら言った。


「…ヨングク…。」


「…ん?

 …なんだよ… 泣くやつがあるかよ。

 心配しなくていい…。

 あいつらも、わかってくれるさ…。

 …友達なんだから…。」

ヨングクは、優しくつぶやいた。


「…違うの…。

 …足… 踏んでる…。」


「……!」

ヨングクは、チンスクの身体を離した。


「じゃあ、サンヒョクにはあなたから伝えてね…。

 チェリンには…

 私から折を見て話すから…。


 …ああ、痛かった!」

足の指を揉みながらチンスクが言った。


「ああ… わかってる…。

 サンヒョクの方は任せろ。

 あいつは大丈夫だよ。」

ヨングクは、チンスクの身体の柔らかさを惜しむように、顔を撫でながら答えた。


「うん…。

 そうよね…。

 あの人たち…  大丈夫よね…。


 …友達なんだもの…。」

チンスクはテーブルに肘をつきながら、ようやく小さな息を吐いた。




          *



「…なんだよ… 用事って…。」

仕事を終えたサンヒョクが、出されたコーヒーを飲みながらヨングクに言った。

動物病院には、珍しく『患者』もいないようだ。


「ああ… 悪かったな。急に呼び出したりして…。」

ヨングクも手にしたコーヒーを飲みながら言った。


「いや、別に構わないんだが… お前も父親になってから忙しそうだから…。

 久しぶりに会えてうれしいよ。」

サンヒョクは笑顔で答えた。


「何かいい話でもあったのか?

 …あ…

 例の宝くじ… 当たったんじゃないだろうな?」

得意の占いで、年末の宝くじをどっさり買ったことを聞いていた。

チンスクには内緒だから…と、こっそり教えてくれたのだった。


「…違うよ…。そんな話じゃない…。

 …いい話…

 そう… いい話だよ。」

ヨングクが難しい顔で言った。


「……?

 あまりいい話でもなさそうな顔だな…?

 …待てよ…。

 …あ!

 …二人目ができたんだろう?」

サンヒョクがうれしそうに言った。


「馬鹿言え…。

 そんな話だったら、とっくにチンスクがソウル中にしゃべりまくってるさ。


 …実はな…


 来月…  ユジンが帰国するそうだよ…。」

ヨングクは、サンヒョクを上目遣いに見ながら言った。


「……!

 本当か?

 ユジンが… 帰ってくるのか?」

サンヒョクが驚いた声を上げた。


「ああ、本当だ。

 この間、チンスクに電話があったんだ。


 …サンヒョク…

 お前… 大丈夫か…?」


「…?

 …大丈夫…って…


 …何が?」

サンヒョクの顔は、にこやかに笑っている。


「…ユジンのこと…

 お前… まだ…」

ヨングクは口ごもりながら言った。

その友の顔を見つめながら、サンヒョクは明るく言った。


「…なんだ…。

 そんなことをお前…心配してたのか?

 …大丈夫だよ…。


 もちろん、いろいろ思うことはあるけれど…


 もう今は、大丈夫だと思う…。


 ユジンは…

 大切な『友達』だよ…。」


「………。

 じゃあ…

 ユジンに会っても大丈夫なんだな?

 俺たちで… 歓迎会をやってもいいんだな?」

ヨングクが切ない表情で聞いた。


「ああ。

 『友達』が久しぶりに帰国するんだ。

 喜んで参加するよ。


 ユジンも…

 喜んでくれると思う…。」

サンヒョクはうつむいて微笑んだ。


「…サンヒョク…。

 俺…


 お前を『友達』に持てたことを誇りに思うよ…。」

ヨングクがつぶやいた。


「…ヨングク…。

 …ありがとう…。


 いつも… すまないな…。」


二人はお互いの顔を見つめ合った。

温かなコーヒーの香りが、二人を包んでいた。




          *




「チェリン…  いる?」

閉店後のブティックのドアを開けて、チンスクが声をかけた。

 
「…どなた?


 …あら、チンスク!

 久しぶりね。


 チヒョンは元気?」

チェリンが笑顔で言った。


「ええ、おかげさまで元気よ。

 お店の方はどう?」

チンスクも笑顔で尋ねた。


「まずまずよ。

 あなたのおかげで、あの商品もよく売れてるわ。

 感謝してるわよ。」

最近、ヘアースタイルも落ち着いたものに変わったチェリンが、明るく答えた。


新商品として売り出した乳幼児向けの服が、評判になっていた。

『オ・チェリン』ブランドの子供服は、ソウルの若い母親たちの人気を集め始めていた。

派手目な意匠で、年配の人々から白眼視されていたチェリンのデザインも、このところはずいぶん評価が変わりつつあった。

そのアイデアの裏には、チンスクの実生活の中から生まれたものが生かされていたのだ。

子育てのために、仕事を休んではいたが、時折そんなアイデアを持ち込んでくるチンスクは、今も社員手当を受け続けていた。


「それはよかった…。

 あのエプロンドレス… 私もたまに家で着てるわよ。」

チンスクもうれしそうに言った。


「そう?

 家の中だけにしてね…。


 モデルのイメージも大事だから…。」


「まあ! 相変わらず失礼ね!」


「それも仕事を休んでいる罰よ。

 本当にあなたがいないと大変なんだから…。」

チェリンはクスクス笑っている。

チンスクは、胸が熱くなるのを覚えていた。


「…で、今日は何の用?

 新しいアイデアでも?

 今日は私、これから出かけなきゃいけないんだけど…。」

チェリンが時計を見ながら言った。


「ああ… ごめんね。

 たいした用じゃないんだけど…。


 実はね…


 来月… ユジンが帰ってくるの…。」

チンスクは、チェリンの表情を気にしながら言った。



                     -2につづく-