「礼拝」





一昨夜から降り続いていた雪はようやく止んだ。

今朝はかすかな陽射しも戻ってきて、パリの街を白く輝かせている。


ユジンはまだ暗いうちに起きていた。

日曜だというのにめずらしいことだと、自分でもおかしかった。

ただ… 雪の街を歩きたかっただけ…。


誰の足跡もない白い雪の上を、まっすぐに歩きたいと思っていた。

まるでキャンパスに絵を描いてゆくように…

一歩一歩… 後ろを振り返らずに歩こうと思っていた。



朝焼けの街には、誰の影も見えない。

自分ひとりだけが、雪の上を歩いてゆく。

風はまだ冷たくはあったが、頬に当たる陽の光は優しかった。



パリに来て3度目の冬…。

ひとりきりにも慣れた。

話をする友はいなくても、心の中にはいつもあの日の彼がいる…。



ユジンは、踏みしめる雪の音をひとつひとつ記憶するかのように歩いた。

靴の底で、雪は小さくささやいている。

落ち葉のように… 星のまたたきのように…

ユジンの胸に響いていた。



(………?)


とある路地の入り口まで来た時、ユジンはそこに真新しい足跡を見つけた。

誰のものだろう… 自分より大きな足跡…。

男の靴跡のようである。


その足跡は、迷うこともなくまっすぐに路地の向こうへ続いていた。



(………!)


ユジンは、その足跡の上を自分も踏みながら、ゆっくりとその路地の奥へと入っていった。

何かに吸い寄せられるように…

その足は、ユジンをいざなっていった。



(…教会…。)


足跡を追ってたどり着いた場所には、小さな古い教会があった。

足跡は、その門の中へと続いている。


(…ああ、今日は日曜だものね…。

 信仰の篤い方が、早くから礼拝にきたのかも…。)


ユジンは、そっとその教会の中に入っていった。



          *


礼拝堂の中には、誰の姿もなかった。

薄暗いその空間に、ステンドグラスを通して青い光が差し込んでいた。


ユジンは一番前の椅子に座った。

目の前の十字架に、キリストが架けられている。

瞳を閉じたその表情に、ユジンは手を合わせた。


(…神様…。

 …今日も…穏やかに過ごせますように…。


 …故郷の母や妹… 友人たちも健やかでありますように…。)


ユジンは、ひとり静かに祈りを捧げた。



(……?)


どこからか、風がながれてくる…。


締め切られたこの堂内に、冷たく入ってくる冬の香り…。


あたりを見回すと、ステンドグラスの窓の一部が壊れている。

風はそこから入り込んでいるようだ。


ユジンは窓のそばに歩んだ。

足元に手のひらほどの青いガラスの破片が落ちていた。

それを拾ったユジンは、窓の破れに当てた。

ガラスを止めた鉄枠が錆びて抜け落ちたらしい。

少し力を入れてはめ込むと、破片はその場所に治まった。


(まるでパズルのようね…。

  …………。)

ユジンは、その窓のステンドグラスを見上げた。

流れる星々が、美しく描かれたものだった。




「…おはようございます。

 ご苦労様です。」

急に後ろから声を掛けられ、ユジンは振り返った。


そこには一人の神父が立っていた。


「…朝早くから、ありがとうございます。

 …門前の足跡を見て、どなただろうと思いましたら…

 お見かけしない方ですね。

 フランスの方ではないのでしょうか…。」


どこか懐かしい笑顔と、低く優しい声…。


ユジンは頭を下げてから答えた。

「勝手に入り込んで、申し訳ありません…。

 通りすがりの者です。

 向こうの通りから足跡をたどっていたら、こちらに来てしまいました。

 もしかしたら神父様のものでしたか?


 私は、韓国からの留学生で、チョン・ユジンという者です。」

ユジンは、たどたどしいフランス語で言った。


「ああ、そうでしたか。

 私の足跡で…。


 なにやら良いことをしたような気分ですね。

 ようこそいらっしゃいました。」


温かな… 人を包み込むような声だった。


(……!  …パパ…)


ユジンは、その神父の声が亡くなった父によく似ていることに気がついた。

そういえば、面差しもどこか父のような柔らかさを感じる。

ユジンの胸は温かくなっていた。


「先程はありがとうございました。

 窓を直していただいたみたいですね。」

神父が言った。


「…まぁ… ご覧になっておられたのですか?

 すいません。

 適当にはめ込んだだけです。」

ユジンは笑いながら答えた。


「あとでしっかりと直しておきますよ。

 とにかくありがとうございました。


 …礼拝もなされてましたね。」

神父は、笑顔を絶やさずに言った。


「…はい…。

 故国を離れていますと… やはり家族や友人たちことが心配になります。

 みんなが無事でいられるように… 祈らせていただきました。」


「…それは… お優しいお心ですね…。

 たぶん、あちらの方々もあなたのことをご心配なされているでしょう。

 そのお心も感じられるはずです。

 あなたの安寧を、私も祈らせていただきますよ。」

そう言って神父は、手を合わせた。


ユジンもまた、手を合わせ頭を垂れた。


遠い故国…。

懐かしい人々…。

自分が傷つけた人々の心…。


(私は、まだ許されないのだろうか…)


ユジンは、祈りの中で彼を思った。


(…チュンサン…。

 …あなたも安寧な日々を送っているのかしら…。)


あの時、彼のあとを追わなかった自分を責める心の声を、この3年間何度聞いただろう。

彼との約束…。

会わないと決めた理由は… それしかない。


理由がなければ会わないのか…。

そうつぶやく自分の心…。


冬が来るたびに、胸を締め付ける思い…。

何かにすがりたい気持ちは、ただひたすら大学の研究で忘れようとしてきた。


だけど… 忘れられない…。



「…チョン…ユジンさんとおっしゃいましたね?」

神父の声に、ユジンは目を開けた。


「せっかくですが、これからミサの準備を始めねばなりません。

 これにて失礼させていただきます。

 よろしかったらあなたもご参加ください。

 いつでも神は待っておられますよ。

 …もちろん私もですが…。」

神父はにっこりと笑うと、そう言った。


「ありがとうございます。

 私も、久しぶりに心が温まるのを覚えました。

 また来させていただきます。」

ユジンは答えた。


「ええ、お待ちしています。

 …今日は、ありがとうございました。

 …では…」

そう言って立ち去ろうとした神父は、何かを思いついたように振り返った。


「…ユジンさん…。

 お祈りはまだ続けても結構ですよ。


 あなた自身の願いもあるでしょう?」



「……!」

ユジンは、また十字架の方を見た。

そこに朝日が差し込みはじめている…。


「みなさんのご無事を祈るあなたの優しい気持ちはわかりました。

 …でも、あなたご自身の気持ちに嘘をついてはいませんか?


 …神は、全てお見通しですよ。

 …神の前で嘘はいけません。


 …ご自身の心を神に委ねなさい…。



 …ユジンさんが、今一番望んでいることは何ですか?

 …それを神におすがりしてみたらどうでしょう…。


 …もし… 泣きたいのなら…  ここが一番ですよ。

 しばらくは誰も来ないですから…。


 …大丈夫。

 …誰にも聞こえませんよ…。」



「……。 …神父様…。」


ユジンの目から、抑えていた涙があふれだした。


神父は、黙って笑顔を向けると、背を向けて礼拝堂から出て行った。


あとには、ユジンだけが残された。


ユジンは十字架に向かった。


(…神様…。

 …私は…  …私は…


 …一人の人を愛しています…。


 …その人と、ずっと… ずっと一緒にいたかったのです…。


 …世界中の誰からも祝福されずとも…

 …誰もが私から去っていっても…


 …その人さえいてくれたなら…



 …神様!

 …私…   会いたいです!


 …彼に…  …チュンサンに会いたいんです!


 …神様!!


 …………!)





礼拝堂の中で、ユジンの慟哭は続いている…。


その窓の外では、また静かに雪が降り始めていた。



                          -了-


あとがき

これもボツ原稿だったものを書き直したものです。
パリに行ったユジンを描いたもの。
その行動には賛否両論があります。
しかし、3年の間… ユジンは苦悩し続けたことは間違いないと思って、このストーリーを書きました。

僕はキリスト教徒でもないので、信仰の部分はよくわかりません。
解釈も間違っているかもしれません。

それがボツにした理由です。

そのあたりは優しい読者のみなさんに許してもらおうと、若干の手直しをしてアップすることにしました。


これで泣ける方は、きっとユジンの味方なんだろうなぁ…と思います。