「Pluto  ~あれから1年後~」



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「サンヒョク…。どこに行くのよ。

 …教えてよ。」

車は、ソウルの街を走っていく。

ネオンの渦が、時折まぶしくサンヒョクの横顔を照らしていた。


「…すぐ着くから… 待ってなよ。

 別に変なところじゃないさ…。」

そう言って、サンヒョクはにこにこしている。

「………。」

チェリンは、そんなサンヒョクの強引さに、多少困惑しながらも、不快な気持ちは覚えなかった。

いつもはぶっきらぼうな彼の、違う部分を初めて見たような気がしていた。



「…さあ、着いたよ。

 チェリン… ごめんね。

 おなかも空いただろう?」


車が到着したのは、ソウルでも指折りの一流ホテルだった。

サンヒョクは、エントランスに車を入れると、駐車場の係員に言った。

「先ほど予約の連絡をしたキム・サンヒョクですが…。」


「はい。お待ちいたしておりました。

 では、お車の方はこちらでお預かりいたします。」

サンヒョクは車から降りると、助手席のドアを開け、チェリンをエスコートするように手を取った。

(………!)

チェリンは、少々どぎまぎしながらも、車を降りた。


「いらっしゃいませ。

 ご予約のキム・サンヒョク様ですね?」

ボーイが声をかけてきた。


「ああ、そうだよ。

 席は大丈夫ですか?」

サンヒョクが、言った。


「はい。ご用意できております。

 こちらへどうぞ。お席の方にご案内いたします。」

ボーイは、駐車場の係に車の移動の確認をすると、ふたりをレストランの方へと案内した。

フランス料理が美味しいという評判は、チェリンも聞いたことがあった。


「…サンヒョク…。 大丈夫なの?

 ここって… かなり高いんでしょう?

 あなた… 来たことがあるの?」

チェリンが小声でささやいた。


「…ん? 大丈夫だよ。

 前に一度来たことがあるんだ。

 
 せっかくだから、君にごちそうしようと思って…。

 出がけに予約しておいたんだ。」


「…そうなの?

 …それはありがたいんだけど… 本当にいいの?」

チェリンはまだ不安そうな顔をしている。


「なんだよ…。

 僕なんかとじゃ嫌なのかい?」


「そういうのじゃないわよ。

 なんだか… 悪くって…。」



「馬鹿だな…。

 君みたいな人を、近所のラーメン屋に連れていくわけにはいかないだろう?」


そう言うと、サンヒョクは笑って歩き始めた。

チェリンもその後ろを歩きながら、何だか不思議な気分に襲われていた。



          *



案内された席は、ソウルの街が見渡せる最上階にあった。

窓から見える夜景が美しかった。


(あれから… そろそろ1年か…。)

サンヒョクは、流れる車の光跡を見つめながら、ふとその当時を思い出していた。


あの日…

早朝から、ひとりエントランスでユジンが出てくるのを待っていた。

ミニョンからの電話を受けて、ただその言うとおりに待っていたのだ。


記憶が戻らないミニョン…。

彼は、結局アメリカに戻ることを選んだ。

それを追ったユジン…。


そして… あの事故…。


もはや、どうにもならない運命だと知った、あの日…。




チェリンも、窓の外を眺めながら、ミニョンのことを思い出していた。

このプラザホテルを、彼は定宿にしていた。


(彼も… この夜景を見ていたのかしら…。)

あの頃の、彼の笑顔と… そして冷たく変わった横顔…。


(…サンヒョク…。 あなた… それを知っていて、ここを…?)

目の前のサンヒョクは、静かに外を見ている。


「…チェリン…。

 フランス料理は、僕… あまり詳しくないんだ…。


 注文は、君にまかせてもいいかな?」

サンヒョクが、振り向いて言った。

その顔は、無邪気な微笑をたたえている。


「……!」

チェリンは、その笑顔にほっとする思いがした。


「なんだ…。

 私、てっきり、あなたはいつもこんなところに来てるのかと思ってたわよ。」

チェリンも笑いながら言った。


「…まさか…。

 そんな身分じゃないよ。


 君が誘ってくれなかったら、今夜もカップ麺の予定だったのさ。」

サンヒョクがおどけて言った。


「カップ麺?

 …だめよ、そんなものばかり食べてちゃ…。


 ちゃんとした物を食べないと、身体を壊してしまうわよ。

 もっと自分の身体を大切にしなきゃ…。」

チェリンが、厳しい顔で言った。


「…そうだね…。

 …ありがとう…。 ………。」

ふいに、胸にこみあげてきた思い…。

サンヒョクは、涙があふれそうになった。

久しぶりに、人から優しい言葉を聞いたような気がした。

チェリンの顔が、かすかに滲んで見えた。



オーダーは、チェリンが全て行った。

出されたワインのグラスから、芳しい香りが漂っている。


「じゃあ… お互いの健康を願って、乾杯しようか…。

 チェリン…。 君のお店の繁盛もついでに願って…。」


「ええ。ありがとう。

 でも、車があるから少しだけね。

 …乾杯!」


ふたりはグラスを合わせた。

カチンと小さな音をたてたグラスに、温かな照明と香気が揺れている。

ふたりは食事をとりはじめた。



しばらくして、チェリンが言った。

「美味しいわね…。

 本場にも負けないくらいだわ…。

 サンヒョク…。ありがとう。」


サンヒョクも手を止めて言った。

「よかった…。

 僕… あまり味がわからないよ。

 確かに美味しいけれど、やはり食べ慣れてないせいかな…。

 君、フランスにいた頃は、いつもこういう物を食べてたんだろう?」


「…馬鹿ね…。 そんなしょっちゅう食べられるわけないじゃない…。

 たまに…よ。」

チェリンは笑いながら答えた。

「…そう…。

 それは…  ミニョンさんと…?」

サンヒョクは、視線を料理に落としたままで言った。


「……!  ………。

 …そんなことも…あったわね…。

 …でも… 彼の話は、もうやめて…。」

チェリンがつぶやいた。

サンヒョクは顔をあげた。

チェリンの目に、寂しげなものを見つけた。

「…ごめん…。

 …悪いこと言っちゃったね…。」

サンヒョクもつぶやいた。


ふたりの間に、しばらく沈黙が続いた。


前菜が去った後、チェリンがようやく口を開いた。


「お母様はお元気…?

 あまり良くないと聞いてはいるんだけど…。」


「…母さん?

 …うん… そうなんだ…。

 まだ寝たり起きたりの状態だよ。

 一時期よりは、ずいぶん良くなったけどね…。」


「そう… 大変ね…。

 ちゃんとお食事を召し上がっているの?」


「…いや… それが…。

 最近は、全く台所にも立たなくなったよ。

 あの母さんが…。

 料理だけは、世界一だと… 僕、そう思っているんだけどな…。」


「…! …だからね…。

 フランス料理も口に合わないのよ。

 あなた… お母様のお料理が一番美味しいと思ってるんでしょう?」


「ああ、そうかもしれないな…。

 …? それって、僕がマザコンだとでも言いたいのかい?」


「…違って?」


「……! ちぇっ! 否定しにくいな…。」


そう言うと、サンヒョクは笑った。

チェリンもクスクス笑っている。


「クリスマスには、お母様も何かお料理するんじゃない?

 ちゃんと食べてあげるといいわ。

 そういうのがきっと、お母様には今一番大切なんだと思うの。」


「そうだね。

 でも… 仕事があるからな…。

 クリスマスと言えば…

 チェリン… 覚えているかい…?

 昔、山小屋に行った時のこと…。」

サンヒョクの言葉に、チェリンはうなずいた。


「もちろん覚えてるわよ…。

 みんなで… そう… みんなで行ったのよね…。」


(…あの頃の… 私たち6人は…)


「あの頃の僕って、どんなやつだった?」

サンヒョクが言った。


「…え? どんなやつ…て?」

チェリンがたずねた。


「…う~ん… どう言ったらいいかな…。

 つまり… いわゆるガリ勉だったかい?」

サンヒョクは、困ったような表情で言った。


「……! もちろんよ。

 他にどう表現していいかわからないくらい、あなたって『ガリ勉』だったわよ。」

チェリンはおかしそうに笑った。


「…! 他に言い方がないのか?

 なんだか情けないな…。」

サンヒョクのしょげかえる顔を見て、チェリンは言った。


「…そうね…。他に言うとすれば…

 まあ、真面目で正義感の強い優等生…ってとこかな。

 センスは良くなかったけど… クラスではマシな方だったかもしれないわね。

 …これくらいなら満足?」


「……! それ、ほめてくれたのかい?

 なんだか変な気分だよ。」


「ええ、最大の賛辞よ。

 …じゃあ、私はどうだった?

 あの頃の私のイメージって、どんなふうだったの?

 …正直に言って。」

チェリンがじっと見つめている。


「…そんな顔で見られたら言えないよ…。

 …でも… そうだな… 君は…


 …何でも自分が一番だと自信を持っていて…

 …そのくせ、ちょっとおっちょこちょいで…

 …けれど、豊かな想像力を持っていて…

 …口は悪いけれど、本当は優しい心で…

 …美人は美人なんだけど…

 …ちょっとまわりからは浮いてる感じがして…」


「…何よ! 悪口ばっかりじゃない!!

 失礼な人!

 ずっとそんな目で私を見てたのね!」

チェリンはそっぽを向いて言った。


「…だって、君が… 正直に言えっていうから…。

 気を悪くしたなら謝るよ。

 …相変わらずだな…。」


「何が相変わらずよ、それはお互い様!

 私たち… 結局… なんにも変わっていないのね…。

 なんだかそんな気がしてきたわ…。」

チェリンはため息をついて言った。



                             -冬の残り火 14 ③につづく-


あとがき

舞台は『ソウルプ○ザホテル』ということになりますかね…。
22階のレストラン『TOP○Z』での食事…。

玄関でずっと待たされたサンヒョクが、1年後最上階で食事をする…。
それもひとつの風景だと思います。

文字数制限に引っかかって、切れの悪いところで次に続くことになってしまいました。