「Pluto ~あれから1年後~」
2
「サンヒョク…。どこに行くのよ。
…教えてよ。」
車は、ソウルの街を走っていく。
ネオンの渦が、時折まぶしくサンヒョクの横顔を照らしていた。
「…すぐ着くから… 待ってなよ。
別に変なところじゃないさ…。」
そう言って、サンヒョクはにこにこしている。
「………。」
チェリンは、そんなサンヒョクの強引さに、多少困惑しながらも、不快な気持ちは覚えなかった。
いつもはぶっきらぼうな彼の、違う部分を初めて見たような気がしていた。
「…さあ、着いたよ。
チェリン… ごめんね。
おなかも空いただろう?」
車が到着したのは、ソウルでも指折りの一流ホテルだった。
サンヒョクは、エントランスに車を入れると、駐車場の係員に言った。
「先ほど予約の連絡をしたキム・サンヒョクですが…。」
「はい。お待ちいたしておりました。
では、お車の方はこちらでお預かりいたします。」
サンヒョクは車から降りると、助手席のドアを開け、チェリンをエスコートするように手を取った。
(………!)
チェリンは、少々どぎまぎしながらも、車を降りた。
「いらっしゃいませ。
ご予約のキム・サンヒョク様ですね?」
ボーイが声をかけてきた。
「ああ、そうだよ。
席は大丈夫ですか?」
サンヒョクが、言った。
「はい。ご用意できております。
こちらへどうぞ。お席の方にご案内いたします。」
ボーイは、駐車場の係に車の移動の確認をすると、ふたりをレストランの方へと案内した。
フランス料理が美味しいという評判は、チェリンも聞いたことがあった。
「…サンヒョク…。 大丈夫なの?
ここって… かなり高いんでしょう?
あなた… 来たことがあるの?」
チェリンが小声でささやいた。
「…ん? 大丈夫だよ。
前に一度来たことがあるんだ。
せっかくだから、君にごちそうしようと思って…。
出がけに予約しておいたんだ。」
「…そうなの?
…それはありがたいんだけど… 本当にいいの?」
チェリンはまだ不安そうな顔をしている。
「なんだよ…。
僕なんかとじゃ嫌なのかい?」
「そういうのじゃないわよ。
なんだか… 悪くって…。」
「馬鹿だな…。
君みたいな人を、近所のラーメン屋に連れていくわけにはいかないだろう?」
そう言うと、サンヒョクは笑って歩き始めた。
チェリンもその後ろを歩きながら、何だか不思議な気分に襲われていた。
*
案内された席は、ソウルの街が見渡せる最上階にあった。
窓から見える夜景が美しかった。
(あれから… そろそろ1年か…。)
サンヒョクは、流れる車の光跡を見つめながら、ふとその当時を思い出していた。
あの日…
早朝から、ひとりエントランスでユジンが出てくるのを待っていた。
ミニョンからの電話を受けて、ただその言うとおりに待っていたのだ。
記憶が戻らないミニョン…。
彼は、結局アメリカに戻ることを選んだ。
それを追ったユジン…。
そして… あの事故…。
もはや、どうにもならない運命だと知った、あの日…。
チェリンも、窓の外を眺めながら、ミニョンのことを思い出していた。
このプラザホテルを、彼は定宿にしていた。
(彼も… この夜景を見ていたのかしら…。)
あの頃の、彼の笑顔と… そして冷たく変わった横顔…。
(…サンヒョク…。 あなた… それを知っていて、ここを…?)
目の前のサンヒョクは、静かに外を見ている。
「…チェリン…。
フランス料理は、僕… あまり詳しくないんだ…。
注文は、君にまかせてもいいかな?」
サンヒョクが、振り向いて言った。
その顔は、無邪気な微笑をたたえている。
「……!」
チェリンは、その笑顔にほっとする思いがした。
「なんだ…。
私、てっきり、あなたはいつもこんなところに来てるのかと思ってたわよ。」
チェリンも笑いながら言った。
「…まさか…。
そんな身分じゃないよ。
君が誘ってくれなかったら、今夜もカップ麺の予定だったのさ。」
サンヒョクがおどけて言った。
「カップ麺?
…だめよ、そんなものばかり食べてちゃ…。
ちゃんとした物を食べないと、身体を壊してしまうわよ。
もっと自分の身体を大切にしなきゃ…。」
チェリンが、厳しい顔で言った。
「…そうだね…。
…ありがとう…。 ………。」
ふいに、胸にこみあげてきた思い…。
サンヒョクは、涙があふれそうになった。
久しぶりに、人から優しい言葉を聞いたような気がした。
チェリンの顔が、かすかに滲んで見えた。
オーダーは、チェリンが全て行った。
出されたワインのグラスから、芳しい香りが漂っている。
「じゃあ… お互いの健康を願って、乾杯しようか…。
チェリン…。 君のお店の繁盛もついでに願って…。」
「ええ。ありがとう。
でも、車があるから少しだけね。
…乾杯!」
ふたりはグラスを合わせた。
カチンと小さな音をたてたグラスに、温かな照明と香気が揺れている。
ふたりは食事をとりはじめた。
しばらくして、チェリンが言った。
「美味しいわね…。
本場にも負けないくらいだわ…。
サンヒョク…。ありがとう。」
サンヒョクも手を止めて言った。
「よかった…。
僕… あまり味がわからないよ。
確かに美味しいけれど、やはり食べ慣れてないせいかな…。
君、フランスにいた頃は、いつもこういう物を食べてたんだろう?」
「…馬鹿ね…。 そんなしょっちゅう食べられるわけないじゃない…。
たまに…よ。」
チェリンは笑いながら答えた。
「…そう…。
それは… ミニョンさんと…?」
サンヒョクは、視線を料理に落としたままで言った。
「……! ………。
…そんなことも…あったわね…。
…でも… 彼の話は、もうやめて…。」
チェリンがつぶやいた。
サンヒョクは顔をあげた。
チェリンの目に、寂しげなものを見つけた。
「…ごめん…。
…悪いこと言っちゃったね…。」
サンヒョクもつぶやいた。
ふたりの間に、しばらく沈黙が続いた。
前菜が去った後、チェリンがようやく口を開いた。
「お母様はお元気…?
あまり良くないと聞いてはいるんだけど…。」
「…母さん?
…うん… そうなんだ…。
まだ寝たり起きたりの状態だよ。
一時期よりは、ずいぶん良くなったけどね…。」
「そう… 大変ね…。
ちゃんとお食事を召し上がっているの?」
「…いや… それが…。
最近は、全く台所にも立たなくなったよ。
あの母さんが…。
料理だけは、世界一だと… 僕、そう思っているんだけどな…。」
「…! …だからね…。
フランス料理も口に合わないのよ。
あなた… お母様のお料理が一番美味しいと思ってるんでしょう?」
「ああ、そうかもしれないな…。
…? それって、僕がマザコンだとでも言いたいのかい?」
「…違って?」
「……! ちぇっ! 否定しにくいな…。」
そう言うと、サンヒョクは笑った。
チェリンもクスクス笑っている。
「クリスマスには、お母様も何かお料理するんじゃない?
ちゃんと食べてあげるといいわ。
そういうのがきっと、お母様には今一番大切なんだと思うの。」
「そうだね。
でも… 仕事があるからな…。
クリスマスと言えば…
チェリン… 覚えているかい…?
昔、山小屋に行った時のこと…。」
サンヒョクの言葉に、チェリンはうなずいた。
「もちろん覚えてるわよ…。
みんなで… そう… みんなで行ったのよね…。」
(…あの頃の… 私たち6人は…)
「あの頃の僕って、どんなやつだった?」
サンヒョクが言った。
「…え? どんなやつ…て?」
チェリンがたずねた。
「…う~ん… どう言ったらいいかな…。
つまり… いわゆるガリ勉だったかい?」
サンヒョクは、困ったような表情で言った。
「……! もちろんよ。
他にどう表現していいかわからないくらい、あなたって『ガリ勉』だったわよ。」
チェリンはおかしそうに笑った。
「…! 他に言い方がないのか?
なんだか情けないな…。」
サンヒョクのしょげかえる顔を見て、チェリンは言った。
「…そうね…。他に言うとすれば…
まあ、真面目で正義感の強い優等生…ってとこかな。
センスは良くなかったけど… クラスではマシな方だったかもしれないわね。
…これくらいなら満足?」
「……! それ、ほめてくれたのかい?
なんだか変な気分だよ。」
「ええ、最大の賛辞よ。
…じゃあ、私はどうだった?
あの頃の私のイメージって、どんなふうだったの?
…正直に言って。」
チェリンがじっと見つめている。
「…そんな顔で見られたら言えないよ…。
…でも… そうだな… 君は…
…何でも自分が一番だと自信を持っていて…
…そのくせ、ちょっとおっちょこちょいで…
…けれど、豊かな想像力を持っていて…
…口は悪いけれど、本当は優しい心で…
…美人は美人なんだけど…
…ちょっとまわりからは浮いてる感じがして…」
「…何よ! 悪口ばっかりじゃない!!
失礼な人!
ずっとそんな目で私を見てたのね!」
チェリンはそっぽを向いて言った。
「…だって、君が… 正直に言えっていうから…。
気を悪くしたなら謝るよ。
…相変わらずだな…。」
「何が相変わらずよ、それはお互い様!
私たち… 結局… なんにも変わっていないのね…。
なんだかそんな気がしてきたわ…。」
チェリンはため息をついて言った。
-冬の残り火 14 ③につづく-
あとがき
舞台は『ソウルプ○ザホテル』ということになりますかね…。
22階のレストラン『TOP○Z』での食事…。
22階のレストラン『TOP○Z』での食事…。
玄関でずっと待たされたサンヒョクが、1年後最上階で食事をする…。
それもひとつの風景だと思います。
それもひとつの風景だと思います。
文字数制限に引っかかって、切れの悪いところで次に続くことになってしまいました。