「林檎」





「結婚…できません!」


そう言って、人々の席から飛び出した私を、ミニョンさんは抱き止めてくれた。


「…もう、離さない…。 …誰にも渡さない…。」


私は、その言葉に身を委ねた。


「…僕の言うとおりにするのです…。 いいですね?

 …僕についてきてください…。」


私は、うなずいた。


彼と… ミニョンさんと…

私は、後ろを振り返らずに、彼とともにスキー場をあとにした。

これが、自分の運命なのだと思いこもうとしていた。




彼は私を、その別荘へといざなった。

もう…後戻りはできない…。

私は、そう思っていた。


そこで出会った彼のお母様…。


私は、恥ずかしかった。

ふしだらな女と見られることを怖れたのではない。

彼に… 嘘をつかせたことが恥ずかしかった。



ふたりきりになった…。


彼は、優しく私の心を包んでくれた。

私の哀しみも怖れも… 全て彼の言葉が温かくくるんでくれた。

この身体も… 彼のコートの中で…


私は、初めて心の安らぎを知った。

いや… あの頃と… あの人と…同じように…。



彼は、私のために部屋を用意してくれた。


「僕は、2階で寝ますから。」


私は、とまどった。

今夜… 彼と…   そうなることも覚悟していたから…。

彼は、明るく言った。

「おやすみ。」

この人なら… 信じていける…。



「…あ。 そうだ…。」

階段を昇りかけた彼が振り返った。


「ユジンさん… 何がお好きですか?」


「…え? …何…とおっしゃると?」


「…明日の朝食ですよ。

 何が食べたいですか?」

彼の目が笑っている。


「…何でも…。」

そう答えた私に、彼は言った。

「…いつもは、朝、何を召し上がってるんです?」


「…そうですね…。 …果物とか…」


「…ああ、果物ですか。

 …果物は何が好きです?」


「…どうして、そんなに聞くんです?」

私は、あの日を思い出してしまっていた。


「…前に言ったはずですよ…。

 …覚えておきたいんです。

 あなたのことを… 何でも。」


(………。)

私の胸は、つぶれそうになった。

「…何でも…」

あの日… 好きな食べ物を尋ねた私に、チュンサンはそう答えたのだった…。


「…何でも?

 それならよかった。

 じゃあ、おやすみなさい…。」

私のつぶやきを、ミニョンさんは勘違いしたようだ。

私は、彼の優しさに感謝しながら、眠った。



          *


目覚めた私は、リビングに入った。

ミニョンさんの姿はなく、テーブルの上には林檎と蜜柑、そしてプチトマトが載せられていた。

ミルクも添えられ、そのカップの上には埃除けだろう… ナプキンが乗っていた。

彼の心遣いがうれしかった。

 
彼は、早朝の市場に出かけていたらしい。

大きな魚を買ってきた。

それを彼は料理し始めた。

危なっかしい手つきで…。

「作ってあげたいんです」

彼は、そう言った。

…優しい人…。


でも… 結局、私が包丁を持つことになった。


そして、私たちの初めての朝食…。


彼は、言った。

「ユジンさん… ありがとう。」

私は、驚いた。

朝食を作って、お礼を言われることなど初めてだった。

彼は、いつもひとりで食べていると言った。


この人も… チュンサンと同じ…。


私も、こんなに穏やかな朝食は久しぶりだった。

彼は私の作った料理を、「美味しい」と言ってきれいに食べてくれた。

それも、私にはうれしかった。


「…林檎… 剥きましょうか?」

私は彼に言った。

彼が用意してくれた林檎が、そのままになっていた。


「私が剥きますから、食べてください。

 朝の林檎は、美容にいいんですよ。

 …あ。男の方にはどうだかわかりませんが…。」


「…ええ、いただきますよ。

 僕が剥くと言っても、剥かせてくれないでしょう?」

先刻切った指先を見ながら、彼は笑った。


「…私、林檎が好きなんです。

 …覚えておいてくれますか?」

私がそう言うと、彼は目を細めてうなずいた。




          *



あの、心が温かく包まれた日々は、もう遠い記憶…。

私は、ミニョンさんから離れる道を選んだ。

サンヒョクと…。

これからは、サンヒョクと生きることに決めたのだ。

全ては、回り道だったと…。

ほんの少し… 私は、道を逸れたのだと思うことにした。


今は、サンヒョクのために、こうして林檎を剥いている。

これが、これからの私の人生なのだ。


なのに…。



サンヒョクが言った。

「今日、ミニョンさんを見かけたよ…。」


私は、心を抑えられない…。

どうして… この人は…。


私は、しかたなく彼に問うた。

彼が安心できる答えを教えてくれと問うた。

彼は… 口をつぐんだ。

彼も… 私の心のどこかにある、ミニョンさんの姿を見ているのかもしれない…。

ごめんなさい… サンヒョク…。


私の言葉にサンヒョクは言った。

「それ以上、正直になるな。」

彼には… 私の本当の心が見えているのだ。

なのに… なぜ…。


私は、言った。

「もうこの話はよしましょう。」

彼もうなずいた。


私は、林檎を彼に勧めた。

今日、市場で買ってきた林檎…。

何の変哲もない、その林檎。


私は… 『禁断の果実』を口にしたのかもしれない…。

これからは、楽園を追われた罪人のように、生きていくしかないのだろうか…。

2つ…おまけにもらった林檎…。


あの人との記憶も、私の人生には、おまけのような時間…。


口の中の林檎が、急に涙の味に変わっていった。


哀しい味…。


切ない味…。



なのに、懐かしく恋しい…。


サンヒョクの視線に気づいた私は、その林檎を涙と一緒に飲み込んだ。


                               -了-

     



あとがき

これもボツ原稿の中から。
「冬ソナ」本編の第9話~第11話あたりの場面をつなぐストーリーです。

「朝の林檎は、美容にいいのよ」
そう言って、パクパク食べるチェ・ジウssiの映像もありましたね。

「挿話」を書くのも、なかなか難しい…。
そう思い始めた頃の作品です。